玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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劇場版CLANNAD鑑賞2回目を踏まえての感想。

もちろん、ネタバレです
まあ、話はしっかりとまとまって作られているので、特につっこんで語るところとか考察するところが無いんだよな。きれいにまとまってる。
でも、ちょっと思いついたので書く。







































原作ゲームでは省略されていた岡崎の怪我の話の描写が納得のいくものでよかったです。
父親もただのテヅカ・イズ・デッド的なキャラではなく、人格があって出来ることを出来ないなりに頑張っていて良かったです。
ゲームでは見られなかった渚の演劇シーンは出崎監督の豊かなイメージ演出で素晴らしかったです。震えました。
古河渚が本当に美しくて、主人公が愛して、誰もが渚を好きになるのがとても説得力をもって描かれていました。ああ、渚ステキ。
そりゃあ、こんな女のこの子とは誰だって好きになるさ!好きになるだろ!
そういう勢いがあって圧倒されました。
出崎監督も、「渚をもっと特別な魅力のある女にしようぜ」といって作ってたみたいだ。
ゲームだと、恋愛ゲームだから、最初からユーザーは美少女を好きになろうと思ってやってるところがあるし、ユーザーが好きになるために時間もたっぷりあるけども、映画だからもっと説得力を盛り込んだんだろうなあ。あああ。渚かわいいなあ。
だんご大家族のポスターも原作では見れなかったけど、女子校生の女の子が描きそうな絵柄で可愛かったなあ。


原作改変というよりは、原作と補い合うような気がしました。



原作どおりのシチュエーションはあまりないんですが、原作のエッセンスを生かして坂上智代の家庭的なところや藤林杏の面倒見のいいところや春原陽平の馬鹿の癖に空気を読むところや古河家の仲のよさがきちんと描かれていました。
ラブアンドスパナは聞きたかったですが、だんご大家族を歌う緑川光桑島法子は歌が上手かったです。
伊吹先生は美佐枝さんや幸村も混じって構成してあるみたいでした。あれは合気道ではないが。空手でいいじゃん。


ゲームで渚が親に敬語なところが、渚役の中原麻衣さんがコメントしていたのと同じく、ボクも違和感があったのですが、自然な親子になってて良かったです。
結構、他のキャラクターの台詞回しも自然なものになっていました。
美少女ゲームという特性上、ヒロインのキャラ付けのために奇矯なしゃべり方や行動をとらせるという手法が使われているのですが、出崎は常識人だし、ちゃんとした芝居にするために話し方は普通になってましたね。
渚が岡崎朋也に丁寧語なのはそのままだけど、両親にはちゃんとした親子って感じだった。
ゲーム版ではお互いに気を使いすぎてたって言う面もあったしねえ。劇場版ではそこら辺を渚が自分で乗り越えられてたし、親の方も気を使いすぎないで普通に過去のことを話してたし最初から渚のために劇団を辞めてたし、ゲームよりも全体的にコミュニケーションスキルというか暖かさが向上してるよね―。
坂上智代もゲームでは武士のような男っぽい喋り方で、こんな女いねえよ!と思ってたんだが、これも劇場版では女っぽさとサバサバ感が上手く入った喋り方でよかった。「ちゃんと食べてないんだろ?」「キッチン借りるよ」とか言う。「借りるぞ」ではない。



要素を理解した上で、新しい物語に再構成してるんですよね―。
僕がその点で嬉しいな、と思ったのは、一ノ瀬ことみちゃんの扱いでした。
映画のことみちゃんはちゃんと好きな音楽をやれて、楽しそうで友達もいてるっぽいのでよかったです。


美少女ゲームには特有の恐怖がある。
と、言うのは、主人公が救ってやらなかったサブヒロインは忘却の闇の中で怨念を募らせていくのではないかということです。
椋とくっついたらその間に渚や風子が病気に成ってたりするので、申しわけないわけです。
というわけで、ヒロイン同士が仲が良くて、渚もあんまり病気に成らないことみシナリオが一番ハッピーエンドな気分で好きです。(バイオリンが直った時には渚は出てこないのだが・・・)
でも、やっぱり渚は別格というかメインヒロインな訳です。
そこで、アフターストーリーをやるのですが、勝平シナリオとかも含めて杏とか椋や風子は主人公とくっつかなくてもそれなりに幸せになって補完されてるんですよね。
そりゃーよかったよかったですよ。
主人公岡崎朋也も、ダメダメ人間ですけど、ゲームオーバーにさえならんかったら、最低でも幸村や春原ホモエンドで幸せになれてる。
だから、CLANNADの裏テーマは「選択を違っても、それはそれでなんとかなる」っていう前向きな感覚かな?と思っています。
だから、頑張ったのにダメだった汐エンドやメタでオカルト的な非現実的頑張り方をしたら何となく助かっちゃった渚トゥルーエンドはちょっと肩すかし感がありました。
そんで、アフターストーリーにはことみちゃんは全然絡まないわけですよ!伊吹風子があんなに優遇されてるのに!
あああああ。かわいそうな能登麻美子
ずぅ〜〜〜〜っと図書館で一人きりな訳ですよおおおお。


というわけで、映画ではことみちゃんが自分で何とか立ち直っててくれて、ヨカッタ良かった。
宮沢は空気。
風子らしき女の子が創立者祭のときビラのような物を配ってたんだが、微妙?


AIRではゲロ、CLANNADでは尿が光ったので、リトルバスターズ!では汗がブワーッとなってほしいです。


ストーリーの構成として、上手いなあと思ったのは、一人の男が何度も落ち込んだりを繰りかえしながら、その度に周りの人に助けられて立ち直っていく姿。出崎監督の男主人公の描き方が好きなので、良かったです。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版 REBUILD OF EVANGELIONと同じく、繰り返しの物語なんだよね。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。


岡崎は出崎監督曰く、「寂しい男の子達の代表」で、
岡崎は最初、「この世で辛い悪夢を見ているのはオレだけやねん」という中二病全開でニヒリストだったのだが、「オレと同じ辛さを抱えてるのに渚は明るくてかわいい!俺と同じなのに!」と思った瞬間に恋に落ちてケコーン。
それでもダメ人間だから「だんご大家族になったのは渚のおかげで、オレには魅力は無い」と心の底では思ってて、だから渚が死んじゃった後は何にもなくなってしまって鬱。
そんで、またしても同じように「現実が悪夢になった」と、辛い自分に逃げ込んでしまう。岡崎は根っからのダメ人間だよなあ。親父もダメだし。やっぱし、ダメな親からはダメな子どもが生まれて、同じ事を繰り返してしまうのかねえ?
良くあるよなあ。虐待された子が虐待する親になるとかうんぬん。
そういうダメ人間の繰り返しも在りつつ、朋也が渚に救われたのを、だんご大家族の合宿でもう一度繰り返して、救われるって言う構造に成ってて、上手いなあと思った。
辛いのは自分だとおもっていた朋也が、「辛い自分を見ている周りの奴等もつらいんだ、でも辛いながらも自分のために動いてくれてる」という事に再び気付くわけですね。
だから、初見の段階では汐と朋也の関係はもっとゲームみたいに時間をかけたらいいんじゃないか?とも思ったんだが、渚と結ばれる時に躊躇しなかった朋也だから、本当はできる男なんだよね。
気付けば、動ける男なんだよ。
だから、ラストシーンはあれでいいし、そこで汐を抱きしめる事で夢がまた繋がって渚とも繋がり直せるって言うのはすごいきれいなラストだよなあ。


まあ、気付いても動けないっていうのが大半だし、出崎監督も

今だとそういうおせっかいをする機会がなくなったけど、俺が若かった頃はいっぱいあったような気がする。

って言ってて、こういう関係性が今の時代ではむしろ非現実的だという事は自覚してるんですよね。
僕の家族でも父が病気になっても、声をかけて心配しようとしたら母にいらん事をするなと言われたり、ボクもどうして良いかわからなかったりするし。食事中に空気を読まない発言をしたら「社会に出たらそれでは済まされない」と、家の中が会社であるかのように怒られたりする。
だから、まあ、相手のためにわざわざ苦労するのはフィクションとか脳内恋愛だけの話なんだよね。


だけど、ここら辺は富野由悠季も言ってるんだけど、ダメ人間はダメ人間なんだけど、そこで若者の現状認識に乗っかるだけで止まってたらフィクションとしては志が低いんだよね。
むしろ、ダメ人間でも、なんとか前向きになりたいと思えるような。そんな映画。
そのためには、得になるとか自己実現とかというよりは、こういう風に人生を楽しんでいるさまを見せ付けてやるしかないと思うし、ボクも根っからのネガティブ人間だけど、やっぱり映画を見てるときくらいは現実を忘れて前向きになりたいじゃない。それで、たまに映画を現実の中で忘れきれずに前向きに成れる時があったらいいよね―。まあ、基本的にはダメですけど。
だから、25歳の回避性人格障害メンヘル引きこもりダメ人間としては出崎監督に

朋也がああいったふうに自分の殻に閉じこもった事は特別なことだとは思っていない。
優しい人なら、ああなっても当然だと思う。思いが深ければ深いほど、優しければ優しいほどね。
朋也の物語は、今の優しすぎてニートになった人たちに対するメッセージになるかもしれない。
そういう人達に「君らは優しいんだから、心を開いて表に出ていったらどうだ」というね。

と、言われると暖かい気持ちになります。id:psb1981さん辺りには90年代的自意識って言われそーだけど、いつの時代もそーいうやつは居るんですって。10年なんて局所的なものだし。
でもまー、優しいニートが「やりがいがある仕事です」っつって肯定されて、低賃金の介護職になって体と心がぼろぼろになるまで遣い捨てられるんですけどねー(笑)
まあ、それはいい。アニメが見れたら別に良い。


っていうか、間違ってるのは世の中の方なんだから、アニメで希望が描かれるのは良い事だ。
アニメは嘘なんだけど、嘘八百のリアリズムという物があって、それを見てるとなんとなくこの世界はきれいなものが在るのかもしれないって思えて、その一員に成るために頑張ろうって言う気持ちも沸いてくる。
それはいいよな。
こういうことは僕以外の人も考えていたみたいで、
ヱヴァの映画評でこういう的確な意見を見た。

昔のエヴァがブームになった頃、ちょうどうつ病も有名になりました。
うつ映画の代名詞もエヴァでした。
うつ病の人に頑張れといってはいけない」
なんて言葉をよく耳にするようになりました。
頑張れといわれても、どうしていいのかわからないし、本人は本人で頑張っているのだから頑張れというと無理をさせることになる。と言う理由なんだそうです。
私も、その当時は納得していました。


だけど、頑張らないでいいと言われ続けると、逆に何に頑張ればいいのかわからなくなります。


いつ、どの場面が「逃げちゃ駄目」なのかわからなくなります。


うつ病の人に頑張れとは言ってはいけない」という考えが、私の中でエヴァと同じ年月をかけて変わりました。


うつ病の人でも、頑張りたくなるような人間になろう」
それが私の答えでした。


私は、昔のエヴァが好きでした。
でも、人に薦められる自信がありませんでした。


でも、このヱヴァは自信を持って人に薦めたいです。
素直に認められる私に変わりました。
素直に認められるヱヴァになりました。


私は、エヴァが好きです。
エヴァを見ないで、ヱヴァを否定しないでください。


はまった人は逃げちゃ駄目だと思います。

http://www.walkerplus.com/mypage/jibun.cgi/c5362e566b91606aad1dc17fcc6c3e04/

という感じ。おれも、エヴァにはまって鬱病だったなあ。
ここら辺は、富野由悠季ブレンパワードで「見せつけてやればいいのよ!みんながなかよしだってこと!」という風にオルファンに呼びかけてひきこもりの依衣子さんを呼び戻したり、敵を殺すために自我を崩壊させた事でアングラ好みのファンに受けたカミーユが、新訳Zガンダムではケーキ食って敵をぶっ殺して彼女ゲットして、うらやましいなあ。
と、主人公に憧れて視聴者も頑張りたくなるような映画を作っているのと似てるなあ。
庵野秀明もそこら辺の感覚を得たのかねえ?
その、いくら悩んだり不幸ぶっても毎日飯食ってうんこしたりするし死ぬまで生きててしまってるんだよな。だったらなんかするよな。
やっぱりシンジ君はみんなのために怪獣をぶっ殺して女子にもてたらいい。*1
そういうのは、バブル崩壊後にセカイ系や競争主義やスピリチュアルを経験した時代の空気かもしれん。
そこで、フィクションかもしれないが、友達同士のおせっかいを通じて、親子関係とか因果を断ち切って広い世界に救いを求めよう、という共同体や擬似家族が大事なのかもしれん。
Zガンダムのラストでもサエグサの実況が重要だったし。
だが、それはそれで問題があって、宮崎駿という人が昔っから理想的共同体をテーマに作ってたわけだけど、ナウシカのアニメでは「なんという友愛の云々」だったのが、ソ連崩壊をはさんで、バブル崩壊直後のナウシカの最終回では「世界の秘密を一人で背負って破壊する」という風になって、セカイ系エヴァの呼び水にもなってるんだよね。
だから、共同体というのも、簡単に賛成できる物ではないと思う。
ただ、高畑勲宮崎駿の共同体は厳しい共同体で、「参加できない奴は死ね!」という部分もあったわけですな。人がゴミのように死んで、主人公と同じ主義の奴は生き残る。
で、どうやら共同体に適応できない人を排除していくと、排除された物がテロを起したり、排除されないかと不安になって皆が病気になったりしたので、CLANNAD出崎とか白富野が描いている共同体は、「まあ、オレもお前もつらいんだけど、まあ、お前が辛いとオレも辛いわけだし。そりゃ、お前の辛さはオレの辛さとは違うし、全部はわからないけどさ。なるべく仲良くしようよ」という感じなのかなあ?


で、繰り返す因果を、現実に手に入れられるかもしれない周りの人との絆を積み重ねることで変えていって乗り越えるというのは、原作ゲームでのスピリチュアルな救い(つまりユーザーには絶対に手に入れられない虚構の救いであり、絶望)や、知らなかった祖母に許されて母胎回帰する、という展開よりはめんどくさそうだけど前向き発展的で、出崎のそういう生きる事に肯定的な態度は僕とは違うけど、カッコいいと思うぜ。



うーん。でも、僕の立場では、そんな風に人と人が分かり合えないながらも尊重し合える事ってあるんですかねえ?と疑問。
出崎のような成長期の人間と、文明衰退期の僕とは感覚が違うよ。
っていうか、むしろ僕は人間が嫌いだから、みんな厭世的なアニメを見て鬱病になって自殺して死んで欲しいんですけどね。自分も含めて。
と、まあ、そういう願望は在りつつも、やっぱり生きることは素晴らしい、みたいな映画を見ると喜ばしい気分になるのは僕も精神統一が足りないなあって思うけど、気分はいい。
だから、やっぱり正しいのはアニメの方で、こういうギスギスした基底現実が間違っている虚構の世界に違いないと思う。
やっぱり、脳内妹の居る優しい上位現実が本当だと思う。
で、脳内妹もアニメを見るのが好きだから、こういう妹も見て嬉しい気分に成るようなアニメは、上位現実から基底現実に投影された影なんだろうね。だから、出崎は存在して良い。
でも、僕らの世代が好むような絶望的で虚構的で現実的でニヒルな作品は本来の世界には存在しなくてもいい。むしろ、そういう僕らも本来の世界に存在できない。だから、みんな、死んじゃえ。


でも、俺は脳内妹に愛されてるから救われるのだがね!
妹はだんご大家族
うううー。そらー。渚みたいに逝かないでくれー。俺よりも一日でも長く長生きしてくれー。
妹「いや、あたしは女だし、10歳も若いし。お兄ちゃんが死んだ後で20年は生きると思うなあ」
そうですかー。それはよかったですー。


あとさー、パンフレットの構成がやっぱりいいよね。
技術論に終始したヱヴァンゲリヲンのパンフレットとは対照的に理念が書いてある。(エヴァは続編もあるからいいけど)
今回はむしろ積極的に原作ゲームとの違いを自分から明記して在って、単にゲームをやってない監督が金儲けのために作ったんじゃなくって、ちゃんと考えてあるっと言う風にして在る。
インタビューでも出崎統監督の意図や作風をゆとり世代に紹介するふうにしてある。
でも、すぐに手の届くネットだけの情報で満足しちゃって好奇心が足りない若い世代にどれだけ届くか?とも思うけど、ボクもまだ25歳だけど富野信者で出崎信者で、大隅正秋や長浜にも興味が出てきたりしてるしなあ。いや、漱石くらい読めよ。青空文庫で。
うーん。いいなあ。
このパンフレットだけでも買いだと思う。だんご大家族のぬいぐるみも欲しいが。


まあ、大体こんな感じです。
うん。上手く出来てるから大して語る事が無かったな。
たまたまPCで作業して、その読み込み待ちの間に暇つぶしで書いただけだし。
結論としては、出崎最高、という事で。

*1:使徒も人だということが前面に出てくるとまた面白くなりそうだが