怒涛の説明回!高倉家に起きた事件、渡瀬眞悧の過去、夏芽真砂子と夏芽マリオとの渡瀬眞悧との関係、ピングドラムと渡瀬眞悧との関係が説明された。
だけど、泣けた…涙が止まらなかった・・・。なぜかな?それは、この作品のテーマが僕の個人的な命題に突き刺さったからだよ。シビれるだろう?もちろん、演出演技の巧みさもあったんだ。
ああ、それと、オープニング主題歌のやくしまるえつこのノルニルを買ったのだけど、その歌詞が本編のテーマを描いているという感慨もあった。
- アーティスト: やくしまるえつこメトロオーケストラ
- 出版社/メーカー: キングレコード
- 発売日: 2011/10/05
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1995年の世紀末の閉塞感の時代に生まれた子供たちだってもう高校生になって自分の人生を歩み始める時代なんだ。終末なんかなかった。運命全て決められていたとしても、デスティニーは輪る・・・。
さて。
正直、誰がノルニル、誰がプリンセス・オブ・ザ・クリスタル、誰が眞悧と同類の女の子、誰が荻野目桃果なのか、それはまだ分からない。だけど、今回示された所だけでも、青春の切なさにしびれるだろう?
僕が今回痺れたのは、涙したのは、自分と他人の境界線だよ。
高倉冠葉は高倉陽毬を愛しているから、自分の命を燃やして怪しげな相手に差し出して灰になっても構わないと、眞悧から薬を買う。高倉冠葉は陽毬から何か対価を得ようとはしていない、何もいらない、ただ、陽毬がいたらいい。だって、陽毬は冠葉自身だから、大切な妹だから。失う事は考えられない。自分が死んだ後のことが分からないのと同じ。
この思考停止、行動だけが激しく疾走するシスコンの兄の愛は痺れるね。
高倉晶馬は両親を愛していたけど、両親の起こした事件の償いを自分たち家族がしなくてはいけないって罪悪感を感じて、そして陽毬が病気になった事を女神様の罰だと言う。
メリーさんと女神についての話を、晶馬はモノローグではなく口を動かして言っているし、その時の晶馬は目の焦点が合ってない感じなので、晶馬も、そらの孔分室に迷いこんだ陽毬と同じくどこか別の空間に意識が飛んでいたのかもしれない。
両親の罪、メリーさんの罪、それは子供たちが償わなくてはいけないという。そして、3匹の子羊の誰が罰によって損なわれても、それは運命の女神様の気まぐれだから同じ。兄妹は同質。自分と妹との境界線、両親と自分の境界線があいまい。
渡瀬眞悧は世界中でたった一人きり、世界中の助けを求める声が聞こえる人だった。人の命を救う事の出来る力を持ち、それゆえに生を求める人々の欲望にさらされていたのだろうか?たった一人闇の中に居た超越者。
だけど、16年前、一人の女の事であった。その子は眞悧と同じ瞳の色をしていて、眞悧と同じものを見て、同じものを聞く力を持っていた。眞悧は喜んだ。自分と同質の物の存在に。
その女の子はおそらく、死に瀕して中央図書館そらの孔分室に迷いこんだ荻野目桃果だと思うのだけど。桃果の遺体は戻ってこなくて、日記だけが戻って来たらしいし。
荻野目桃果も世界の声を聞いて運命日記を描いていたのだろうか?それは未来の日記だったのだろうか?
だけど、その女の子は眞悧を否定して消えてしまった。多蕗圭樹の前からも消えてしまった。荻野目家からも生まれる妹の苹果と入れ替わるように消えてしまった。桃果が消える事は運命日記には記されていなかったはずなのに。運命に逆らって世界の果てより外に消えてしまったのだろう。
それで、眞悧は・・・・・・運命が本当にあるのか、それを示すピングドラムの実在を探すために今も超常の力を使ってさまよっている。
この男も切なかったのだ。
超常の力を持っていても、たった一人の「僕の恋人」を求め続ける・・・。この男のこういう生き方、ナルシシズム的な振る舞いの裏にある孤独なセンチメンタリズムは結構しびれる。僕もかなり独善的な人間で、自分を分かってくれる人を求めてるような所があるから共感するよ。
夏芽真砂子も高倉兄弟と同じく病気の家族の夏芽マリオの命を助けるために生存戦略を行っている。そして眞悧ともつながっている。が、眞悧を憎んですらいる。
夏芽真砂子は第11話で高倉冠葉にこう言った。
「この世界は愛の狩猟区」「ハンターが獣を追い、獣がハンターを追う。・・・永遠の追いかけっこね」「狩を楽しむにはお互いの力が拮抗してなければ」と。
だからこそ、真砂子は冠葉と同じ条件、同じ境遇で、同じく家族のマリオを助けたいと思っているからこそ、冠葉と同じ立場に立って、冠葉と同化して冠葉を愛し、愛されることができると思っているようだ。自他が同化して溶け合う快感という愛もある。
「見返りを求めない真実の愛は、相手の本当の形を所有すること」
自分が相手の本当の形と同化するという事かしら?冠葉は陽毬に命を与えて陽毬と同化しようとしているが・・・・・・。もつれる少年少女の愛憎と闘争!これはゾクゾクする。だよね。
そして、真砂子は「紅い玉」を「あそこ」から持ちだした人物で、冠葉の秘密を知る人物でもある。冠葉の秘密とは、爆破テロを起こした高倉剣山、高倉千江美の子供という事だろう。
このままだと冠葉は海に落ちる。一羽が飛び込めば、海の中に獰猛なアザラシがいるのは分かる。
誰も死にたくない。だから彼はひたすら氷の上で押し合いながら、ついていない誰かが海に落ちるのを待つ。
「あそこ」はそういうところ。
高倉剣山は犯罪グループの指導的立場だと言われているが、それはそのグループの中での生贄、スケープゴート、トカゲの尻尾切りだったのかもしれない・・・。
これも自他の関係で言うと、自分と同じ群れの中の「ついてない誰か」を犠牲にして生存戦略しようという人間社会のことだろうか???
それとも、剣山の所属している「ピングフォース」「ピングループ」「KIGA」のどれかのこと?
うるるんロギー 【輪るピングドラム】ツイッターで外人さんが載せてる考察が面白い
(↑KIGAについての考察)
真砂子は今回、わざわざTOKYO SKY METRO の10周年番組に電話をして「明るい場所と暗い場所は共存しなくてはならない」「全てを明るく照らすと、その反動で暗い場所が明るい場所を攻撃する」と告げた。真砂子は暗黒社会に居るのも、冠葉と同じか・・・。むしろ、そこで知り合ったのか?
こういう風に、自分と他人の境界線が上手く区別できていない人たちのドラマだった。
そういうの、僕の琴線に触れるなあ。僕も脳内妹を作るような人だし。自分の描いている小説でも「自分と同じものが見れる人なら自分を認めてくれるはず」っていうテーマを使ってたりするし、そういうのは意識してる。
だから泣けた。
地下鉄サリン事件を題材にしているとか、震災以降の復興をテーマにしているとか、そういう舞台装置のシリアスさもあるんだけど、それを舞台として、登場人物たちの「愛」と「独善」の狭間の感情が描かれているので、そこが感動できるのです。シリアスな設定はあくまで設定で、人の情がメイン。シリアスな設定はドラマや人の感情を盛り上げるためのスパイスなんです。地下鉄サリン事件の総括や、社会学論文をしようとしてはいないでしょう。輪るピングドラムはアニメーションのお芝居なので、やはりシリアスさだけを重視しそうになるけど、そこはこらえて、登場人物たちの人生に注目したい。実際の人の人生もいろんな事件に遭遇するけど、それに支配されずに自分の心で生きているわけだからね。
それから、家族や兄妹という自分と自分に近い人たちのテリトリーに、警察やマスコミが入ってきて自他を区別せずに蹂躙していくのも、理不尽で泣ける。
というか、私は脳内妹を作るくらいのシスコンなのですが、だいたいアニメなどの妹萌えにおいて、あまり家族、両親は登場しない。妹との萌えが第一であり、そういう萌え用の妹ってのは「お兄ちゃんの妹」であって「両親の娘」という所はあまりクローズアップされない。だけど、今回の輪るピングドラムでは「生まれる前に両親の犯した罪のせいでマスコミにつるしあげられて、妹が苦しめられる」という、最大級に辛い妹いじめが。辛い。
妹萌えでは親の存在とか、親を通じての社会は恋愛や萌えには邪魔だから描かれない。だけど、ピンドラでは近親相姦タブーというもの以上に「犯罪者の子供」という風に社会からの圧力が描かれる。つらい・・・。
だけど、それも「家族」という物を描くのがテーマというこの作品があえて目を向けようとする所なのか。家族の綺麗な面だけでは家族を本当に描いた事にはならない。暗い部分と共存しなくては、暗い部分も受け入れなくては人間社会は安定しない。暗い部分を隠すだけではゆがみが溜まる。
家族を作るには、家族同士のいい部分だけを見せるようにするのではなく、自分と同じ所を求めるだけでなく、自分とは違う人同士が一緒に居るという違いや、自分の予想とは違う事をされても受け入れる覚悟が必要ってこと?
それでもたった一人で生きているのではなく、冠葉たちは家族を守ろうとする。
家族って妙な存在だよね。
ガンダムの家族論を思い出す。幾原邦彦は庵野秀明と小黒祐一郎の同人誌、「逆襲のシャア友の会」に寄稿するくらい、富野由悠季監督が好き。そこでイクニは、『セイラさんは人間のクズ』と言い放ったらしい・・・。シャアの妹でジオンの姫だけど、戦後は兄もジオン共和国も捨てたからな・・・。
- 作者: 富野由悠季
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そして、荻野目苹果は再び言う。
私は、運命って言葉が好き
だって運命の出会いって言うでしょ?
たった一つの出会いがその後の人生をすっかり変えてしまう
そんな特別な出会いは偶然じゃない… それはきっと、運命
もちろん人生には幸せな出会いばかりじゃない
嫌な事、悲しいことだってたくさんある
自分ではどうしようもない そういう不幸を
運命だって受け入れるのは、とてもつらいこと…でも、私はこう思う
悲しいこと、辛いことにも、きっと意味があるんだって!
無駄なことなんて一つもない
だって、私は運命を信じているから
運命日記に従って桃果になろうとして、プロジェクトMをして家族を取り戻そうとしていたいた苹果だったが、運命日記の後半を奪われて、自分の意思で父親に「再婚おめでとう」とメールをして、多蕗圭樹と話して「出会えてよかった」とキチンと失恋した。
桃果の日記に決められた運命に従うのではなく、それは、日記に記されていない晶馬との出会い、晶馬の過去を聞かされたことがきっかけ。そういう出会いに人生を変えられた事すらも運命として、受け入れることができるように。
桃果が運命の女神ノルニルとして、その日記がピングドラムだとすると、苹果が自分の意思で行動できるようになったのは運命のレールから離れて自分で進む事だろうか?新しい運命を作って終末を変えることができるだろうか?ボーイミーツガールからハッピーエンドへ?
それとも、それすらも消えた日記に記されている事なのだろうか・・・。デスティニー。
苹果は「桃果を失った自分」を特別な物としていたけど、それ以上にきつい運命を高倉晶馬が持っていると知ったから、自分より特別な晶馬に興味が移っただけ・・・?というとちょっと女性不信すぎるかな。
それにしても、多蕗圭樹の指の傷は桃果と別れる前の日にはついていたようだが。
色々と謎は多いですね。
高倉陽毬が女神から与えられた命だが「罰がここで終わってはつまらない」という残酷な生き地獄はどうなんだろうね。
陽毬はテロ事件の犯人の家族という事でいじめられたみたいだけど、東京電力の社員の家族が福島原発事故以降にいじめられているという社会のゆがみがあるわけで、そう言うのに幾原監督は影響されたと言っているわけで。罰を面白がる女神の残酷さは大衆の残酷さかもしれないのだ・・・。
陽毬・・・。
大好きだよ!
エンディングの中村章子さんのトリプルHの絵が綺麗だなー。
今回の西位輝美さんの作画監督も作画が綺麗だったし、3年前の三兄妹も小さくて可愛かった。
そして、婦人警官の赤いマニキュアの毒々しさとか、そういうのも上手かった。