Gレコ第10話「テリトリィ脱出」の感想です。この殺人考察シリーズでは、主にベルリがどんな気持ちで戦ったり殺したのかを映像に即して考えている。そして、やはり大きいのは6話の戦闘で、789話をかけてベルリはリハビリをしていると見た。
前回、9話の感想で
ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第2部第9話 子ども帰りの安心感 - 玖足手帖-アニメブログ-
親や教師の下で安心して子供をできる、というのは恩師を殺してしまった後のリハビリとしては非常にいい安定剤になったのでは。
と、書いた。
しかし、「親や先生が子供を見守ってくれているから社会は安心です。めでたしめでたし」では、少年ロボット戦闘アニメであるガンダムを作る意味はないのだ。なので、親や大人も不完全で社会には悪があるのだ。それに立ち向かう少年も、もちろん間違うことや躓くことはたくさんあるのです。
なので、今回は社会的な悪が描かれる。
本放送の時の感想
nuryouguda.hatenablog.com
本放送の時の感想では主に荒木哲郎の絵コンテ演出の痛快ロボットプロレスアニメとしての楽しさを中心に述べた。
今回は最終回を見てから全体を俯瞰してベルリの心の動きを描いていくのが目的だ。
- 悪役としてのキャピタル・アーミィー
本放送の時の感想でも述べたが、10話はGレコには珍しく敵がはっきりしていてロボットプロレスとして敵と戦う、という構図が分かりやすい。
今回の敵役のベッカー・シャダム大尉は顔も口調も荒々しく、悪い奴に見える。
ナチスみたいな集会をして出陣式をして、
議会や首相と陰謀を巡らせて、
昔のロボットアニメの化石獣のようにアピールをして出撃する。ロボットプロレスアニメの悪役って感じだ。
右傾化する軍国主義に傾く国家は手塚治虫の流れをくむ戦後日本のアニメでは悪役として描かれることが多いので悪役っぽい。
ベッカーはメガファウナのブリッジに脅しをかけてきて怖い。
ベッカーのウーシァはヒロインであるアイーダの乗るG-アルケインに関節技を仕掛けて翼を折るし、アイーダをヒロインピンチに追いやるので悪役っぽい。マジンガーZのアフロダイAをいじめる機械獣みたいに敵っぽい。
そんな敵に対して、新兵器の高トルクパックの整備が完了するまで待ちわびて出撃したG-セルフに乗るベルリは主人公。
ベルリのG-セルフはすごいパワーで敵を撃破するけど不殺の戦法で敵を無力化する。正義っぽい。
そして、天才のベルリは高トルクバックパックを分離させて囮にするという機転を利かせて
G-アルケインと協力して、
正義のパンチをぶちかまして、勝つ!痛快!
悪いベッカーはワニの罰ゲームになり、ベルリは姫を助けることができた。よかったよかった。
と、非常にわかりやすい悪を倒してヒロインをゲットするサクセスストーリーの構図になっている。なので、エンターテインメントとしてとても分かりやすく格好良く楽しい。
…
……
………
…しかし、Gレコは本当に単純な勧善懲悪だろうか?そんなことはない。今回は分かりやすい戦闘ロボットプロレスアニメに見えて、実はGレコの全体から見ると、やはりベルリの殺人に対する心の動きを描いている。
そもそも、ベルリはデレンセン教官を殺したことでショックを受けたが、ベッカーとデレンセンはキャピタル・アーミィーの同僚でもある。今回、G-セルフのパンチとキックはベッカーを殺してはいないが、エアバッグが故障していたリ一歩踏み外したらベッカーは死んでいた。デレンセンはいい人そうだしベルリの教官であり知人なので、殺してショックを受けるわけだが、だからと言ってベッカーに暴力をふるっていい理由にはならない。
殺していい相手と殺してはいけない相手の暴力をふるう区別というのを無意識につけているベルリが描かれているのだ。
「不殺主義」を思わせる台詞の数々だ。そもそも以前から(具体的に言えばデレンセンの死の後から)ベルリは元々戦闘時には極力コクピットを避けるように敵MSを攻撃していた事は視聴者には(ある程度注意深く見ている人なら)分かっていた事だ。それを今話になって急に宣言するかのように台詞で強調するようになったのには違和感が無いでも無い。解釈するのであれば、前話で勢いに乗って「ひとつ!」「ふたつ!」とアッサリ人殺しをしてしまった反省の意として、自分に言い聞かせていた、というのが妥当な所であろうか。
しかしこうしたベルリの台詞とは裏腹に、「死ぬな!」という言葉と共に放たれるGセルフの攻撃によって、画面上では驚く程サクサクと人が死んでいく。そしてさらに驚く事に、その事自体にベルリはほとんど動揺した様子が無い。一見矛盾しているようにも見えるかも知れないが、そこにベルリなりの戦場での倫理ラインが薄らと見えて来る。
ベルリの言動をよくよく咀嚼すると、ベルリは何が何でも人殺しはしないように戦うという意識ではなく、「なるべく殺さないように頑張るけど、死んじゃった時はしょうがない」程度の緩めの不殺主義に過ぎない事が分かる。
d.hatena.ne.jp
細かく見ると厳密には、あでのいさんはそうおっしゃっているわけではないのだが、ベルリは不殺だと言われることが多い。
クランク兄ぃありがバンバン事件がむしろ爽快感を与えるシーンとして機能してしまってたの、めぐりめぐってもしかして飛び級生が将来独裁者になるような血筋のものだったのがいけなかったのでは?
— ゆたろう@今はもう大人しい (@yuhta_8823) 2017年4月26日
今になって1期第3話の三日月による射殺シーンに湧いていた我々に疑問符をつける人等もいるようだけど少なくとも僕は心のそこからあのシーンを見た時嬉しかったね。 今までやら撃ちたくない、殺したくない喚く主人公に嫌気が指してたから楔を打ち込んんでくれた感じがあって今でも大好き
@KINJOnoONIじゃあどうするか、どんなモノが見たいかを悩んでた時に鉄血があって、三日月・オーガスが違和感と目障りさを一気に吹き飛ばしてくれた。
Gレコのベルリの色々振り回されつつも戦い、そこで成長するっていうのがスタンダードだとすれば三日月のソレはタブーだったモノを一気にやってくれた感じ
まあ確かにあそこで「躊躇無くぶっ殺してくれる三日月さんカッケーっす!」って好意的な反応多かったのは「あれ??」って気がした。
— あでのい@17歳女子高生 (@adenoi_today) 2017年4月26日
クランク兄ぃ殺しで受け手側が不安がるより「ヒューッ!やっぱりすげえよミカは!」っていう空気になってしまってた時点ですべては狂い出していた……?
— ゆたろう@今はもう大人しい (@yuhta_8823) 2017年4月26日
確かに若いアニメファンから見ると富野由悠季のような鉄腕アトム中盤世代の演出家は老害に見えるし、鉄血のオルフェンズの方が反骨心のある若者の代弁者のように見えるかもしれんが…。
しかし、本当にGレコはスタンダードだろうか?僕にとってスタンダードな演出家は井内秀治監督とか佐藤順一監督であり、富野ファンだけど富野監督はやはり邪道だと思っている。だから若いアニメファンがガンダムを正当なアニメだと思っているのはちょっと不思議だと思う。ガンダムは確かに仮面ライダーやウルトラマンと同じくらいの市場をバンダイ社内で獲得しているIPだが、ガンダムを作った富野監督は邪道な面も多く持っている人なので、そんなのを日本代表のロボットアニメの代名詞のスタンダードナンバーだと言われると、ちょっと意外に思う。好きだけど。
(まあ、人気ナンバーワンアニメのタイバニもヴィランの設定まわりが割とアレだし、長浜監督や永井豪にも毒はあるので、何がスタンダードなロボットアニメなのかって言うと困るんだが。ボトムズもなあ…。バイファムあたりになるんだろうか。エヴァはロボットじゃないよね…)
で、話をGレコの10話に戻すと、今回のGレコ10話は悪役をやっつける構図がスタンダードな勧善懲悪で気持ちいい。
しかし、ベッカーもデレンセンと同じキャピタル・アーミィなのに、デレンセンとベッカーに対してベルリが暴力をふるうのは同じなのに、なぜ双方に対する暴力の印象が好悪で正反対になってしまうのだろうか?
ここらへんを通して考えると、実はGレコ10話はスタンダードな娯楽エンターテインメントに見えつつ、かなり暴力に対して自己批評的な要素を内包している(ある種の)気持ち悪さや残酷さを持っているアニメなのではと思う。
本放送の時は1話ごとに反射的な感想を書いていたが、殺人考察シリーズでは複数の話をまたいだ構成について話していこうと思う。
- 10話のVSベッカー戦は6話のデレンセン戦のリフレイン
デレンセンを殺害した後の7、8、9はベルリにとって精神的なリハビリが行われていると評論した。それで9話では母親のウィル長官や教官のケルベス中尉と好意的なコミュニケーションが行われた。しかし、大人がしっかりしているから子供は安心、という能天気な世界ではガンダムを作る意味はない。一見立ち直ったかに見えるベルリはさらに地獄に足を踏み込んでしまう。
nuryouguda.hatenablog.com
オープニングテーマで何度も繰り返しデレンセンを殺している構図にあるように、画面下手からG-セルフは暴力をふるうことが多い。それは6話のデレンセンに対しても10話のベッカーへのパンチにしても同じなのだが。(10話はもう一歩踏み込んで上手に回り込んでドラゴンボールキックをしたけども)
画面下手からの攻撃はマシーンのパワーの暴走によるやりすぎの暴力というニュアンスがある。
「撃ちたくない、殺したくない喚く主人公」と言われることの多い種やベルリだが、そもそも人間は他の人間を殺すと不快感を感じることが多い脳の構造をしている。しかし、対怪獣ではなく対人ロボットアニメは人を殺す。殺したくないけど、うっかり戦争やロボットの過剰なパワーで若者がやりたくもない殺人をするって言うのが富野ガンダムのテーマの一つにある。
(鉄血の三日月が安定して殺してもいい、殺すべき相手をきちんと殺せていたのかは、僕は鉄血がそんなに好きではないので述べない)
ベルリは飛び級生で調子に乗っている天才である。それで6話でデレンセンを殺して、一応落ち込んで反省をした。そのあと7、8、9話でリハビリをして、それでベルリは健康になりました、っていう能天気なお話ではない。精神が落ち込みから高揚に転じる時、健全な中庸の安定で精神の回復が止まることはあまりない。回復で上り調子になっている勢いのまま、躁うつ病のようにベルリはまた調子に乗ってしまうのだ。やりすぎてしまう。それが今回のベッカー戦。
細かく見ても、今回の戦闘は6話のデレンセン戦と要素が似ているので、脚本の富野由悠季は意図的にデレンセン戦と似せて作っていると見える。6話でショックを受けたベルリが似たような暴力行為を平気でする10話を対比として置いているのだ。
6話、G-セルフのみメガファウナの上空に突出してデレンセンと一騎打ちになる
10話、G-セルフのベルリは他のグリモアやジャハナムやレックスノーとは別のタイミングで出撃して1人でベッカーと戦う
6話新しいバックパックの性能に振り回されるベルリ
10話新しいバックパックの性能に振り回されるベルリ
6話エルフ・ブルからモンテーロを救うG-セルフ
10話ウーシァからG-アルケインを救うG-セルフ
6話キャピタル・アーミィを批判するベルリ(エルフ・ブルと戦闘中)
10話キャピタル・アーミィを批判するベルリ(ウーシァとの戦闘後)
6話キャピタル・アーミィの撤退
10話キャピタル・アーミィに撤退を勧告するベルリ(これは彼の成長か増長だろうか?)
6話モンテーロを救助してメガファウナに帰還するG-セルフ
10話G-アルケインを救助してメガファウナに帰還するG-セルフ
と、細かく見ていくと戦況も似通っているし絵コンテのレイアウトや映像の方向性も似せて作っているように見える。
しかし、劇中でも視聴者のリアクションでも、第6話は恩師を殺した最大のミステイクで悲劇で、第10話は荒木哲郎ゲスト絵コンテの爽快アクションという印象になる。同じような暴力でも一方は悲劇に、一方は痛快娯楽になる。これは考えるべきことだと思う。
また、ベルリの精神的なリハビリの段階としても、6話と10話は似ている。ベルリは序盤は子供らしい子供で、子供らしく教官やキャピタル・ガードに精神的に依存しつつ天才性を発揮して調子に乗ってやり過ぎてしまい、4話でカットシーを知らないうちに虐殺して6話でデレンセンを殺した。7、8話は落ち込んでG-セルフをラライヤに渡すものの、メガファウナの仲間たちに頼られて徐々に回復し、9話ではマスクのやらなくてもいい攻撃を受けてエルフ・ブルックを撃破した。その後、さらに恋を知ったとか言って興奮してやり過ぎてベッカーをボコボコにしたのが第10話である。
なので、似通っているのであるが、しかし戦闘後の印象が違う。
デレンセンを殺した後のベルリは明らかにPTSDを発症している。
ベッカーはやられたあと、生きてるんだけどワニに食べられそうになっていて、ギャグっぽいんだけど明らかにベルリのせいで命の危機に陥っている。
そのことに対してベルリは何のリアクションもない。
この違いは何だろうか?
簡単に言ってしまえば、ベルリにはデレンセンとの思い出があり、ベッカーのことは知らない、ということだ。顔見知りを殺すと、自分の一部が失われたような悲しみを感じるが、名も知らぬ戦士を撃ってどうなろうが知ったことではない。ましてやモビルスーツに乗って互いの顔が見えない関係なら…。
という、ガンダムっぽい暴力の価値の戦場における人殺しの心理学が発生する。
ここで前回の第9話の、エルフ・ブルックから脱出したマスクを見たベルリ
「人を見ちゃったら撃てないでしょー!」
逆に言うと、モビルスーツの装甲の中で敵が焼け死のうが知ったことではないということ。
ベルリは不殺だとか、「撃ちたくない!」という甘い主人公と言われがちだが、そうではない。もっと彼はアムロと同じくらい残酷だ。
人を見たら撃てないが、それは自分の手で人を殺したという実感を味わって不愉快に思いたくないだけで、つきつめれば、自分が気持ち悪くなりたくないだけだ。自分が不快に思わなければ、見えないところで誰が死のうが構わない。だからベルリはベッカーを命の危機に追いやっても、それが自分の見えてないところなら意に介さない。また、デレンセンを殺したことも「殺人」に対して罪の意識を感じたというよりは「知人」が喪われたことで自分の一部を喪失したように感じて不快になったというだけなのかもしれない。不殺といえばるろうに剣心だが緋村剣心は殺人をやりすぎて殺人を知り尽くしたから殺人を辞めた人だが、ベルリはそこまで殺人について知らないし考えてもいないお子ちゃまだ(普通の高校生はそれでいい)。だから同じように殺人を嫌がっていると言っても、ベルリが生理的に気持ち悪くなりたくないから殺人を避けているのと、剣心が過去の罪から自覚的に殺人を留めているのは全く違う。
「相手がザクなら人間じゃないんだ」という不条理なセリフを1979年に主人公に言わせた富野由悠季はそこら辺のことをちゃんとわかっている。
そこで、ベルリは戦場に身を置く主人公で当事者だから客観的にはなれないけど、それを見る我々視聴者が同じような暴力シーンを見て一方は悲劇に、一方は痛快アクションとして感じてしまう、その無意識の差別性を自問自答してみるのも良いかと思う。
- 意外と悪くない?キャピタル・アーミィ
今回の10話は「ベッカーが分かりやすい悪役のアクション話」として認知されているが、果たしてそうだろうか?批評家は全てに疑問を抱く。キャピタル・ガード候補生で運行長官の息子のベルリが「キャピタル・アーミィは悪い」と思い込んでいるのは彼の勝手だが、アーミィが本当に客観的に悪いのかは別の問題だ。
ウーシァ部隊の出陣式典。ジュガン司令はこちらにかかりきりでクンパ大佐との連絡が遅れたのか?
ともかく、ウーシァの出陣式はキャピタル・テリトリィの議員へのアピールを兼ねている。
富野由悠季からの現代日本の自衛隊への批評もあるかもしれないが、キャピタル・アーミィは全くの独裁的な悪の組織というわけではなく、一応、議会制民主主義に対して予算と成果を気にして軍事行動を起こす官僚的な生真面目さがある。悪の組織が民衆を支配している、というのではない。むしろ民衆に支持されるために戦う組織のキャピタル・アーミィは民主主義の観点から見ると全くの悪とは言えないのではないか?
もちろん戦争はしないに越したことはないが、現代日本も近隣諸国との関係から、自衛隊の対応能力を望む世論もある。それなら、キャピタル・アーミィが大陸間戦争をしているアメリアやゴンドワンに対して行動力を増すことを議会が支持するのも、悪とは言えないのではないだろうか。
(私個人としてはロシアの核技術がすでにあるのだから、北朝鮮がいまさら核武装したところで脅威レベルは大して変わらないと思うのだが…。ロシアには勝てないよ日本は)
ベッカーが宇宙海賊を撃滅する!というが、それをジュガン司令に「撃滅ではなく人質奪還だ」と言われる。これは本音なのか、それとも議会に対するマイクパフォーマンスの芝居なのか?どちらにもとれるが、どちらにせよウーシァ部隊は一方的な殺戮ではなく政治的な人質奪還のために作戦行動をするわけで、ここら辺も自衛隊の集団的自衛権法制が殺戮ではなく邦人保護を理由として行われた現実の日本から見ても、政治的行動としてリアリティがある。
むしろ、アーミィが殺人や攻撃ではなく人道的救出作戦を方便にしているからこそチアガールたちの世論は「海賊船をやっつけろ!」と言えてしまうのだろう。
また、ベッカーが強面なのに意外と繊細な人物なのも面白い所だ。
ベッカーがウーシァに惚れた理由は破壊力や攻撃力ではなくて、「手先の器用さと身軽さ」なのだ。ベルリ救出作戦のために、破壊力ではなく器用さをアピールしていくという。(ベルリ救出作戦が目的なのは6話のデレンセンと共通している)
また、ベッカーがメガファウナに対して生身で乗り出して、ベルリとラライヤを引き渡せって言っているのは狂気だと思っていたのだが。よくよく見てみれば、彼は「話し合い」をしているつもりで、武力行使をしているのではないから、モビルスーツから降りて生身で交渉をしている、つもりだったようだ。顔が怖いしモビルスーツにも生身で怒っているから、頭に血が上った悪い奴だと思いがちだが、人質救出交渉のために自分が先に武器を持たずに丸腰で交渉をする段取りをベッカーは踏んでいるのか。ベッカーはロボットアニメの文脈だと明らかに悪者でその回のやられ役に見えるのだが、キャピタル・テリトリィを今まで戦争をしていなかった日本として、キャピタル・アーミィをこれから慣れない軍事介入をしていく自衛隊のメタファーとして見ると、ベッカーが海賊に対して戦場のど真ん中で丸腰になって人質交渉をするのは狂気ではなく、彼なりに手順を踏んで平和的に交渉をしているつもり、ということなのだろう。でも顔が怖いのでやっぱり悪役にしか見えないのだが。ベッカーが美形のメインキャラだったら、「海賊に対して人質を平和的に返してもらうためにあえて丸腰になってロボットから降りた」という勇気のある感動的なシーンになるはずが、ベッカーは顔が怖いので「戦場でモビルスーツから降りて恫喝するヤバい奴」という印象になってしまっていて、これもなかなか微妙な感覚のシーンだ。まあ、銃弾が飛び交う戦場でいきなり丸腰になるやつの方がやっぱりヤバい奴に見えるかな…。
日本の自衛隊もスーダンとかに介入して、国連の人道的作戦という名目になっているが、現地の人にどう思われるかは現地の人次第なんだよなあ…。北朝鮮による拉致被害者問題にも似たところがあるよね。日本人は北朝鮮を悪いって思うけど、北朝鮮も独裁者1人が悪いわけでないし、軍が完全に支配しているわけでもないし、普通の人も住んでるんだよなあ…。
また、ベッカーはメガファウナのブリッジやG-アルケインのコックピットに銃口を突き付けるが、威嚇かもしれないんだよなあ。あくまで目的はベルリ救出だし。G-アルケインを襲うにしても、破壊ではなくG系のMSの調査のための鹵獲を目的として、本体を破壊せずに移動手段の翼を破壊して関節技で捕獲しようとしているし。ベッカーは熱血馬鹿に見えて、意外と暴力をふるうに当たって、交渉、威嚇、足止め、などの段取りを踏んでから攻撃をするようなところがある?殺人鬼ではなく、やはり自衛官っぽい官僚機構から軍事組織に発展したのがキャピタル・アーミィなので。お役所仕事の段取りはきちんとしている?そもそもベッカーはクンパ大佐が黒幕だと知った上でアーミィに所属しているし、初登場の時にルインを殴ったのもいじめではなくテストだったので。顔はいかついけど意外と頭がいい人なのかもしれない。
ゼナム親子が「アーミィはギャングみたいなもの」「アーミィのやり方に問題がある」と言っているので、視聴者もなんとなく「アーミィは悪役だろうなー」って思っちゃうけど、実際の自衛隊や軍隊が悪人ばかりでないし公務員と言う側面もあるのと同様、キャピタル・アーミィにも悪くない部分があるのでは。
「君の目で確かめろ!」「想像しなさい!」がキーワードのGレコだが、なんとなく主人公たちが「自分の敵は悪い奴だ」って思っちゃう先入観も、客観的に観察したら疑問符が作中で提示されているのか。わかりづらいが。
- 悪党?メガファウナ一味
で、ベッカーは話し合いをするつもりで来たのだが、メガファウナのドニエル・トス艦長はそれを拒否する。
ドニエル艦長はラライヤ、ベルリ、G-セルフの正体を知らないので、なぜ返還要求されたのかもわかっていないが、とりあえず拒否する。ベルリとG-セルフは当座の戦力になるので、政治的なコマとしても無料でアーミィに引き渡すよりは持っておきたいのだろう。しかし、手塚治虫や藤子不二雄の戦後民主主義的なアニメを見て未来の地球っ子と教育されてきた僕の世代としては、悪役のベッカーが丸腰で平和的に話し合いをしようとしているのに、主人公のベルリが仮にも属しているメガファウナの艦長が「力ずくで止めろ」って言うのは善悪が逆転したみたいでびっくりした。また、この時点ではラライヤもベルリもG-セルフもメガファウナの中にいるので、ミノフスキー粒子で連絡ができないというのは明らかにドニエルの嘘なのだ。ドニエル艦長悪い奴じゃん。結果的にベルリはベッカーやキャピタル政府に自分が求められていることを知らないまま、アーミィよりもメガファウナに帰属することにしてしまうのだが。
高トルクパックを整備して「G系とかヘルメスの薔薇の設計図のことが分かってワクワクしますね~」って言うハッパ中尉は主人公のベルリのロボットをパワーアップさせてくれてるので、ロボットアニメの文脈では味方のサブキャラなのだが、軍拡をメリタリーオタクの趣味でやってる点では危険人物だ。
ケルベス・ヨー中尉はウィルミット・ゼナム長官を取り戻してくれたお礼、と言うがウィルミットがキャピタル・テリトリィに復帰した後もなんとなくメガファウナに合流してしまう。しかも、高トルクパックを持ち逃げする。明らかに犯罪行為。
ケルベスは前回は善良で職務に忠実なスコード教の信者として、世界を守る大人として登場してベルリを安心させてくれたが、彼は彼で善人と言うだけでなく兵器を海賊に横流しする悪行を平気で行っている面がある。
ベルリのリハビリに対して、大人がきちんと仕事しているから子供が安心できる、というのが前回9話のテーマだったが、転じて10話では「大人がきちんとしてたら戦争なんか起こらないし、やっぱり大人も馬鹿です」という不完全な世界を描いてロボットものの戦争アニメを成立させてしまう富野…。前回はいろいろとウィルミットのキャピタル帰還への段取りときちんとしてくれた善人としてのケルベスだったが、今回は彼もやりすぎて高トルクパック横流しやレックスノー部隊の海賊への合流などの善人とは言い難い行動を見せる。段取りをつけるのが上手いのは変わらないし、彼は彼で自分のやってることが彼なりに正しいと思っているのだろうけど、やっぱり海賊に武器の横流しは…。
しかも、メガファウナに肩入れする動機が「軍艦が好きだから」っていうオタク趣味…。個人的なエゴだよ!それは!
ケルベスはウーシァを実用化したアーミィの軍拡を非難するけど、お前も武器を横流しして部隊を海賊に合流させてキャピタルを裏切ってるだろ…。お前が言うな!ほんとうに、みんな自分が武器を使うのは正当化するけど他人が武器を使うと怒るよな…。これは現実のニュースでも同じ。
鉢巻を巻いて海賊になるレックスノーはユーモラスだしビジュアル的にわかりやすいのだが、完全に叛乱。現代日本に例えると、自衛隊(キャピタル・アーミィ)の軍備が増強されて居場所がなくなった海上保安庁(キャピタル・ガード)が巡視艇部隊ごと外国の非公式部隊に協力した上に自衛隊の開発した新兵器を横流しするくらいヤバい。
というか、ケルベス中尉は善人っぽい雰囲気で描かれているけど、軍閥の派閥争いに敗れて国外勢力と内通するとか、国家反逆犯罪者では…。むしろ、海賊部隊に対して手順を踏んで拉致被害者奪還交渉をしているアーミィのベッカーの方がきちんと職務に忠実なのでは?
と、こういう所がGレコのよく分かんないところで、善人っぽい雰囲気の人がサラッと犯罪をしたり、痛快な雰囲気のアクションでガンガン暴力をふるったり、悪そうに描かれてる奴が客観的な行動だけ見ると意外と真面目だったり、二面性や情報の重層性がある。しかも、「かわいい振りして意外と残酷」みたいなアニメだと、「実は残酷でした!」みたいに視聴者がどう受け止めるべきかと教えるネタ晴らしがあるのがスタンダードに見やすい演出だが、Gレコはどういう風に受け止めていいのかガイドを示す演出がほとんどない。これは本当に困る。私も今回改めて見返すまで、ベッカーが生身でメガファウナに脅しをかけたのは単に戦場でテンションが上がるキチガイだからだと思っていたのだが、冷静に見て見ると「話し合いをしている」って本人が言ってるんだよな…。全然話し合いをしている雰囲気でない演出だけど。同じ荒木哲郎監督の演出でも、進撃の巨人はもうちょっと内面描写があって分かりやすいのに…。
もちろん、ケルベスが悪人でベッカーが実は善人、と言いたいわけでもない。
ケルベスが軍艦好きという理由でメガファウナに肩入れしたけど、ベッカーはベッカーで手先が器用なウーシァに惚れてる。どっちもどっち。
また、今回はラライヤまで攻撃的になって暴れているのが印象的だ。
最初は酸素欠乏症で赤ちゃんみたいだったラライヤだが、まともに戻るにつれて攻撃的になる、というのも人間の成長過程をなぞるようだ。
宇野常寛や岡田斗司夫ですら後出しに逃げたGレコの感想を僕と並んで書き上げた同志の id:ohagi23 さんがGレコを総括しているが。
nextsociety.blog102.fc2.com
素朴に生まれる人の思いが、業となって戦争を引き起こす事を描いている。こうしたGレコの世界を踏まえ、戦争が起こらないようにどうすればよいのか。
科学技術は扱い方はアグテックのタブーのような仕組みが有効なのではないか。
いずれにせよ一日一夜で解決できる問題ではない。
戦争を起こさないようにするためには
戦争を起こさないヒントは、メガファウナにある。
メガファウナは、アメリアが海賊部隊であると偽装し、
アイーダ指揮の元、キャピタルの諜報活動やフォトン・バッテリーの強奪を行う組織。その組織に様々な人間が集まる。
アイーダが捕まったことでベルリと出会い、
ベルリとノレドとラライヤがメガファウナのクルーになる。
地球と宇宙を転々とする中で、キャピタル・ガードのケルベス。
トワサンガのドレッド軍のリンゴ。
トワサンガのレイハントン家の旧臣であるロルッカとミラジ。
以上の面々がメガファウナに参加。一時期的にはアメリアのクリムとニック。
キャピタルのマニィなどもメガファウナに参加していた。
人種や国家間を越えて様々な人々が集まったメガファウナ。
彼らは地球からトワサンガ、ビーナス・グロゥブを旅することで、
真実を知り各国間の戦争を食い止める動きを取ることになる。元々、メガファウナに集まったクルーは好戦的ではなく穏健的な立場だ。
こうした国家間を越え、同じ問題意識を持った個人が集まることで、
本格的な戦争が起こる前に食い止めることができた。
つまりメガファウナに集まるような人々がいれば戦争を防ぐ力となるのではないか。
またGレコの物語から振り返るに、一つの考えを持った組織だけに属さずに、
旅をして違う世界や組織の考えを触れることの大切さを訴えていた。
旅することでアイーダのように凝り固まった考えを開放し、
公平で広く深い考えを身につける生き方も訴えていた。
旅を通して様々な考えを身に着けることが、戦争を起こさない道なのかもしれない。
まあ、間違ってないんだけど、Gレコは「戦争を起こさないようにしましょう」って言うだけの話かって言うと、それは違うよ、と思う。
ていうか、メガファウナに乗り込んだ人は戦争を起こさないのが目的じゃないので。ケルベスは軍艦に興味があっただけだし、ベルリとリンゴは一目ぼれだし、ロルッカとミラジは政争と武器の横流しの拠点にしてたし、わりとみんな好き勝手にエゴで集まっただけな気が…。そういうノリとか自分勝手がいい方向に行くこともあるし、ダメダメになることもある。停戦を望んだ親父は流れ弾で死ぬ世界だし。あんまりメガファウナの人には同じ問題意識を持ってるとは思わないけど。
まあ、おはぎさんは根が優しいから戦争を止めるって言うことに興味が行くのかなあって思う。僕は根が悪いので、戦争がどうなろうが自分が得をするように立ち回れるかどうかの方が大事だと思う。戦うべきではないが、戦わざるして勝ち、戦うなら必勝が兵法。
こういうブログの感想戦も如何に深くほかのブロガーよりもクリティカルに切り込めるかって言う戦いなんですけど。でも、すくなくともおはぎさんとあでのいさんは一緒にトミノアニメブロガーナイトをやったし、ツイッターやラジオとかで流したり後出しに逃げたりしないでGレコの記事を書いた人には敬意を持っている。まあ、敬意を持っていても全面的に応援したり山道はしないんで今回みたいなことになるんですが。僕もガンダムが好きだから、好きなことには、やりすぎてしまう。
- 悪は愛 恋を知って戦う
ベッカーとケルベスに話が逸れたが、本稿はベルリの殺人や暴力に対する向き合い方の考察である。それで、今回の第10話は構造的にも戦術的にも第6話に酷似しているが、デレンセンを殺したら気分が悪く、ベッカーを傷つけたら爽快に見える。これはどういうことだろう?と、考えてみた。
やはり、「恋を知ったんだ、誰が死ぬもんか(だから邪魔する奴は殺す)」なのだろう。
第6話のバトル後でベルリが助けたのはとくに好きでもないクリム・ニックだが、今回はバトルに勝って恋するアイーダを助けてハッピーって感じ。
また、前回の感想で
親や教師の下で安心して子供をできる、というのは恩師を殺してしまった後のリハビリとしては非常にいい安定剤になったのでは。
nuryouguda.hatenablog.com
と、ベルリが子ども帰りしたと述べたが、子供のままずーっといられるわけがないし、大人も実はちゃんとしてないし、ちゃんとしてたら戦争なんか起こらないけど、起こるし人は死ぬというのがガンダムのテーマの一つだ。
じゃあなんで戦争しちゃうの?っていう反問に対して「好きって言う気持ちが、他の物を憎む暴力に変わるから」と置いてあるのが、すごく論理的に劇構成をされている感じです。
ベルリは基本的に善人で博愛主義者で倫理的だし、デレンセンを殺した後にショックを受けたのも殺人が悪いとか申し訳ないというだけでなく、「自分が悪いことをした」と認識すること自体に不快感を抱いたような節がある。
しかし、悪いことをしちゃいけないって思うのは子供で、大人としては場面に応じていいことをしたり隠れて悪いことをしたりして清濁併せ持つ実務家をしていくわけです。
今回の10話は「恋が暴力に繋がる」という割と分かりやすいありきたりなモチーフなのだが、2話と6話で調子に乗りすぎてミステイクをしたベルリが子ども帰りをして、復活する精神的なベクトルの状態で、愛から始まる暴力をかまして成功体験として6話のミステイクをベルリが感じ直しちゃう。という物語構成におけるベルリの10話の位置での方向性とスピード感のベクトルが、子どもから大人に向かう思春期に差し掛かる気分であるというのと同調していて、非常にうまいと感じる。
「好きだから他の物を無視して暴力をふるう」って、めちゃくちゃ思春期っぽいですからね。それが主人公の状態としても、全26話における第10話としても、第6話の谷から第13話のザンクトポルトまで上昇するストーリーのテンションのグラフにしても、第10話の他の人物の行動にしても、非常に噛みあっている。荒木哲郎さんに絵コンテ演出をさせたのも、「若さで高揚している感じ」の異質さを出すためには良かったのではないか。
ハッパ中尉のこの「守れなきゃ死ぬんだ!」という言い方も、興奮しすぎて視野が狭いように見える。
俯瞰してみると、どうやらベッカーはベルリとラライヤを奪還するのが目的で、あまり積極的に撃沈や虐殺は狙っていない。でも、ミノフスキー粒子の撒き方にアーミィが慣れていないせいか、海賊部隊は殺されると思って戦う。G-アルケインもやられそうになるが、ベッカーは鹵獲を目的としててアイーダを殺すことには対して興味がないかもしれない。でも、ベルリは落ちたアルケインの足を見て「アイーダさんが殺される!」と思い込んでしまう。ここのアーミィの軍人との意思疎通ができてない感じも6話のディスコミュニケーションのリフレインだろう。
それでアイーダを見て騒ぐベルリにハッパが「ほれてんのか?」って言うんだが。ベルリがアイーダに恋してるってことはノレドでも気づいてるしな…。あと、アイーダさんは兵士を褒めたりするのが公務の姫様だしカーヒルはアイーダと公然と付き合っていた。なので、ディアナカウンター親衛隊のように海賊部隊の人は多かれ少なかれアイーダさんが好きなのかもしれないので、ハッパさんがベルリに対して、どの程度ほれてると思ったのか、冗談なのか本気なのか戦場で興奮しすぎただけなのか、ちょっと微妙ですね。ハッパさんも単なるオタクなのか、大陸間戦争を生き抜いたベテランなのか、ちょっと把握しにくいおじさんだし。
で、この名言っぽい「恋を知ったんだ!誰が死ぬもんか!」ですが。
機動戦士ガンダムのアムロ・レイがマグネット・コーティングをするモスク・ハン博士と饒舌に話すように、富野ガンダムのメカオタク系主人公はインテリとは心理的距離が近づく傾向がある。(小説版Vガンダムのウッソが伯爵と政治理論を戦わせたのは若干やりすぎだが…)
やっぱり、ハッパさんにはベルリは心を開いて男同士の鼓舞をしたかったのかな…。ノレドには「僕はアイーダさんが好き」とは言えないけど、おじさんのハッパさんには張り切って出撃前に言っちゃうベルリ。うーん。思春期って感じですねー。ゲインとゲイナーとか、青少年の恋を応援するおじさんの関係性は良い…。クワトロとカミーユとかアムロとハサウェイとかダメダメな恋愛おじさんもいますけど。
- 好きな気持ちが争いを生む
スコード教は好き嫌いなく平等にバッテリーを配給しましょうっていう共産主義で千年やってきたのだが。
今回の第10話はベルリの恋話以外にも、他の人物が好きって言う気持ちを吐露するシーンが多い。好きになる気持ちはカードキャプターさくらおじさん世代としても見逃せない。
軍艦好きのケルベス
メカニック好きのハッパ
男の世界と鎧の騎士とメカが好きなホモのチアガール
ウーシァに惚れるベッカー
G-セルフが好きなラライヤと、面倒を見るノレド
平等なスコード教のトップの法皇様でさえも、「ハーブティーが好きな味です」と言う!
こういう風に、ベルリが恋心で戦うっていう所で、他のキャラにも好きな物を言わせるのを行間に挟んでいくセリフでの雰囲気づくりは熟練の技を感じていいですねー。
ベルリが攻撃したのは敵の手足で殺していない、と言うのは結果論に過ぎないので大して問題ではない。
(「あれなら爆発はしないはずだ」とは言っているが…。)
ベルリは他の人が殺人を伴う戦闘をしていることは黙認しているし、
ベルリが見ていないところでベッカーは死に瀕していたので、そこまで不殺を徹底しているわけではない。むしろ、「武器は使うけど敵が死ぬところは見たくない。見えないところで死んでほしい」というドローン戦争をしている現代人にも通じる差別心がベルリの無意識にあるのではないだろうか?(相手がザクなら人間じゃないというガンダムの伝統でもある)そういう傲慢さがクンタラのマスクには許せないのだが、ベルリがそれに気づくのはもっと後。
武器を持って戦っている時点で、爆発させないようにしてるってのは傲慢な自己満足なんだよなー。むしろ殺してないけど、その後に相手が怪我してようがワニに食べられそうになっていようが無頓着だし。
好きな物のためには頑張って戦うけど、好きじゃないものには嫌悪ではなく無関心、そういうところが独裁者の血筋の飛び級生なんだよなー。
でも、子供は子供のままではいられないし、大人になる過程の思春期で好きなものと嫌いなものができて葛藤や戦いになるって言うのがガンダムの伝統でもあるし、ティーンエイジャーを主人公にした思春期向けロボットアニメらしさなんだよな。人類が宇宙に出て大人になるのどうのって言う話でもある。(重力に魂を引かれて、宇宙戦国時代のクロスボーン・ガンダムは思春期を繰り返してなかなか超電磁大戦ビクトリーファイブやゴッドバードみたいなアトム大使みたいな宇宙外交のテーブルに就く大人になれてないのが、ガンダム。宇宙に羽ばたく大人になれって演説したシャアもバブみ感じてオギャって人の心の光になった)
ただ、この時点のベルリはまだアイーダに対して大人の男として「助けたんだから俺の物に成れ」とまでは言えなくて、「メガファウナに帰ることを母だって許してくれます」と親の許可を考えて、ガンダムのカメラ越しに覗き見する程度のムッツリした思春期…。大人になりきれないが、大人になろうとする青少年は今後どうなる?
- アイーダのお姉さんっぽさ
そんな風にみんなが好きって言う気持ちのために戦ってワイワイもめてアクションをした第10話だけど、アイーダさんはお姉さんなのでベルリよりも先に思春期を卒業する。気づくアイーダと行動するベルリと言う卑弥呼大和みたいな分業があるんだけど。
メガファウナに帰艦したG-セルフに愛着を見せるラライヤの一方で、
助けられたアイーダ・スルガンは「こんなもの、あってもいいのかしら」と、行為ではなく嫌悪に近い猜疑心をG-セルフに向ける。
「好きだから戦う!」という思春期マインドに溢れた10話のラストで、「戦って助けてもらったけど、それでいいのか?」と考えるアイーダさんはちょっと年上の女子大生のお姉さん。
さて、恩師殺しに似たベッカー殴打を成功体験として感じ、子ども帰りから再び思春期の調子に乗った若者になったベルリは、今後どう成長するのか?
そのちょっと先を行くお姉さんのアイーダは?
続きます。
ただ、大枠を言っておくと、Gレコは調子に乗ったベルリがやらかす、って言うことの繰り返しです。やらかすたびにベルリは「悪いことをしたから、リカバリするために、もっといいことをしよう」って善人ぶろうとするのだが、それがますます彼の人生を窮屈にしていって、色んな所で知らないうちに恨みを買う、みたいな。そんな話。
まーねー、でも、やらかすのも青少年の特権だとおじさんは思うなー。
- 一か月ぶりのGレコ記事
この後13話まで通して見て、改めて殺人考察を書こうと思う。今回のベルリの殺人考察シリーズはリアルタイムの時と違って、全体の流れの中でのベルリの殺人に対するリアクションの変化を評論していくので。
しかし、もともとはトミノアニメブロガーナイトで30分くらいで話したことを文字起こししてるだけなので10日もあれば全話書けると思ったのだが、見返すたびに新発見があってなかなか書けない…。あと、最近私生活が忙しくて。
おはぎさんと一緒にトミノアニメブロガーナイトをした id:adenoi_today さんにこないだの飲み会で「グダちんさんが労働を優先してブログを書けなくなったら現代日本を憎む」って言ってくれました。
はーーーーーーーー。働きたくない。ダラダラアニメを見てその話をしてるだけで暮らしたい。まあ、最近はエアコンが壊れたりしたし冬は机で文章を書く気力がなくてずっと布団でソシャゲしてたまにアイマスのライブに行くって言う生活だったけど。エアコンが直ったのでやっと文章を書きたいんですけど、やっぱり微妙に長いのでこんな時間まで日曜日を潰す羽目に…。
- 次回の殺人考察
- Gレコ感想目次
nuryouguda.hatenablog.com
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