今、Gのレコンギスタのベルリの殺人考察を書くにあたり、さすがに筆が鈍ったので研ぎ直すためにGレコの後半を見返している。で、1か月くらいかけて21話までは見た。なのだが、何にもアウトプットしてないとそれはそれでイライラするので後期OPの「ふたりのまほう」について書く。
Caution!この記事は精神障碍者が執筆しており、色相汚染の可能性があります。また27630文字あります。Caution!
ふたりのまほう 〜The Way to Reconguista〜
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- アーティスト: May J.
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そのために「アナと雪の女王」を100円レンタルで見た。まあ、それについての感想は大したことがないので割愛する。大事なのはGレコ。アナ雪はレリゴーブームの時に部分部分だけ見た段階で好みでないと分かっていたし、見たところ、やっぱり好みではないと思ったので、好きではないアニメについては言わない。
しかし、僕個人の好みとは関係なく、アナ雪は世界的にも日本でも大ヒットしたし、富野由悠季監督はそれを受けてMay J.氏をOPの歌唱に起用してヒット力をGレコに取り込もうとした。これは事実だ。なので、考えてみる。
anime-busience.jp
2014.12.23 | PICKUPクリエイターズVOICE <第1回>
アニメーション監督 富野由悠季
(前略)
- アニメ業界の憂える状況
——久しぶりの現場はいかがですか。
富野:外から客観的に見ててわからなかった部分が具体的にわかってきました。アニメ業界が本当の意味で過渡期に入っちゃったことを、現場がどこまで意識してるかということです。僕の場合、ハリウッドのプロダクションとの業務提携(※5)で旗振り役の一番手になってることと、もうひとつ、『アナと雪の女王』(以下、『アナ』)も重なっています。
——『アナ』を巡る状況は、是非お聞きしたいと思ってました。
富野:それはビジネスを考えるうえでも、作品を作る側にとっても重要なことで、手描きアニメから入っている技術論だけで3Dの『アナ』に勝てるかという話です。『アナ』がここまで動員できたのは、楽曲が成功したからなんです。ところが、画像制作者側は『アナ』のような画像処理をしなければヒットしないと思っています。「でも、そうではないんだよね」というところもきちんと見なくちゃいけないということをここ3、4ヶ月で考えていて、どういうふうに突破できるだろうかと考えた末の結論は出ました。ただ、興行側とか出資者側の人たちには、なかなか理解してもらえないと思います。特に画像処理の問題に関して言えば、ほとんどがモーションピクチャーでやってるんだろうと思うんですが、『アナ』だけじゃなくて『パシフィック・リム』なども含めて、その手のCGや3D処理をした映画全部に言えることなんだけれども、これでしか映画やアニメが作れないというところに行っちゃう方向性が見えるわけで、彼らはそれに囚われています。特にアニメーションは、モーションピクチャーを使うほうが、手描きでやるより早いかもしれないし、楽かもしれないというところまでわかってくると、そういう流れにいくでしょう。けれど、僕はそうではないと言える論拠を見つけました。
——3Dアニメに勝つ、ということについて?
富野:うん。まず、「どうして、CGがいわゆるリアル志向のものになってしまったか」ということに関して言えば、簡単なことなんです。基本的に、画像表現の処理学を全部理科系のオペレーターに任せてしまったからで、そこにアーティストが関与してないからでしょう。技術至上主義になってしまって、今、文化系でひょっとしたらアーティスト系の人も、使っているCGワークの技術を使ってやっていくしかないというところに敗北してるか、敗北って意識も持たないで、便利な道具だからって無定型に使ってる状況が続いているからです。だけど、表現をするうえで3Dが絶対的な手法ではないと言い切れます。その理由のひとつが、絵画の世界では70年代にニューヨークから出てきたスーパーリアリズムです(※6)。流行ったけど、意外と簡単に冷めてしまって、むしろ、それ以後の現代アートというのは、手描きのアニメやアニメ・キャラクターに近寄るところまで行ってしまった。それは一体なんなのだろうかと考えたときに、つまり、リアルに表現することは表現行為ではないという証拠です。それから、もうひとつ。我々が一番経験しているんだけれども、日本における大変大きな事情があって、映画やアニメがこれだけ流行っていった中でも、コママンガが衰退しなかったのは一体なぜなのか、ということです。
——アニメに移り変わられなかったわけですよね。
富野:そう、変わらなかった。むしろコママンガのほうがビジネス的にヒットしていて、表現として映画とマンガのどちらが上なのかといったときに、一般大衆やマーケットは必ずしも映画を善としてはいない。マンガのほうが簡単に手に入れることができるからというだけではなくて、リアルであろうが、すごく簡単な絵柄であろうが、どういうマンガであれ、変なアニメや変な映画よりもマンガ絵のほうがビジネスになっている中、一般の人たちは表現としてどちらを楽しんでいるのかとか、どちらを享受しているのかといったときに、コママンガの持っている表現媒体としての能力は、映画やアニメより上かもしれない。これが2番目の証拠。
——それは、止まった絵を脳内で補完して楽しむ余地を受け手が見つけるからですか。
富野:そう。そういうものを見慣れているほうが表現としては受け入れやすいのではないかと思うんです。この歳になって手描きのアニメの仕事を現場的にやらせてもらえる可能性が出てきて、僕自身が見てきた中で、アニメで描くしかないキャラクターや手描きで描くしかない背景といった表現が、全部リアリズムに落とし込まれたものが優れているといった評価はないってことですよ。決定的に『アナ』が強いなんてことはあり得ないので、井上さんの言ったとおり、受け手が補完するということができるほうが表現としては多様性を持っていいかもしれないわけです。受け手が脳内で補完することによって理解したり想像する部分はものすごく多くて、表現するものが全部リアルになっていいというものではないんですよね。そのうえで、僕が手描きのアニメをやるにあたってあらためて考えたのは、アニメのほうが表現としては記号に近いってことです。記号を使って物語を伝えるときに、正確に物語のメッセージを伝えることができるのがアニメの性能なんです。この性能というのは、実写よりもアニメのほうが強いかもしれないし、さらにマンガのほうが強いかもしれないということです。むしろ積極的にその記号性という部分に寄り添って物語を作っていこうと思って、僕の場合、『G-レコ』では物語というより今回はメッセージ、次の世代の子供たちに考えてもらう課題を明確にいくつか設定しました。
——『G-レコ』で、ということですね。
富野:そう。「『G-レコ』でこういうことを言っているのは、こういう問題があるからだよ」という問題提示をしたつもりです。2クールの中に僕なりにかなり並べることができて、今、スタジオでは「作業的に手抜きでいいから、とにかく早く作ってくれ」と言ってます。
(後略)
Gレコの放送中盤の2014年末の段階で、富野由悠季監督はアナと雪の女王を意識していたとインタビューが残っている。
で、富野監督は「アナ雪がヒットしたのはアニメとしてではなく楽曲がヒットしたからで」と感じたのか(それは建前なのか?)、Let it go.の日本語版EDバージョンの歌唱を担当したMay J.氏を起用した。
私はアナ雪が日本でもヒットしたのはディズニー・ピクサーの資本力と、その監督、製作総指揮のジョン・ラセターとスタジオジブリの制作サイドとの深いつながり、広報戦略によるユダヤ資本的な博報堂の世論操作の動きがあったからではないかと思っているが、富野監督は広報戦略ではなく楽曲を通じてアナ雪をGレコに取り込もうとしたようだ。
2014年、プロデューサー集団「オオカゼノオコルサマ」と米ハリウッドの制作会社「Legacy Effects」が業務提携。その第一弾が富野監督の新作となる。
ということもあったのだが、それはどうなのか有耶無耶のままGのレコンギスタの再編集が5部作の映画になるということらしい。
映画興行は魔窟である。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc200.htmlinri.client.jp
映画産業について特筆すべきは、ハリウッド・メジャーの創業者となったユダヤ人のうち、かなり多数の者が、東欧ユダヤ移民のエスニック・ビジネスからの転業者で占められたという事実である。ロシア生まれのユダヤ人ルイス・B・メイヤーは、アメリカに渡ってクズ屋からスタート、ついに最大の映画会社「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」を創立した。1927年に、彼の呼びかけで「アカデミー協会」(正式名称=映画芸術科学アカデミー協会)が設立され、1929年にアカデミー賞の授与がスタートした。アカデミー賞のトロフィー(オスカーの黄金像)は「MGM」の美術監督にデザインさせた。
ハンガリー生まれのユダヤ人ウィリアム・フォックスは、ソーダ水とサンドウィッチを売り歩く最底辺から身を起こし、被服製造業者を経て、最終的に「20世紀フォックス」を創立して映画王となった。彼はユダヤ教信仰を強制する父親を憎み、父親の葬儀の席でその棺につばをはいた。
●ポーランド生まれのユダヤ人ベンジャミン・ワーナーは、まずボルティモアで靴の修理屋を始め、馬車に安雑貨を積んで行商した。彼の息子たちが、自分たちの稼ぎをためこみ、映写機を購入、映画上映の行商を開始、最終的に映画会社「ワーナー・ブラザース」を創立した。
●同じくハンガリー生まれのユダヤ人アドルフ・ズーカーは、わずか40ドルの所持金を手にアメリカへ渡り、毛皮卸売商で儲けた20万ドルを元手に映画製作へ乗り出し、映画会社「パラマウント社」を創立した。
●なお、世界屈指の娯楽・メディア企業である「ディズニー社」は、創業者のウォルト・ディズニーが存命中はユダヤ人を雇用から排斥し続け、「ワスプの王国」との悪評を得ていた。
しかし、1980年代初めに放漫経営の結果、倒産の危機に見舞われた時、創業者の甥ロイ・ディズニーが経営立て直しの切り札として招き入れたのがマイケル・アイズナーというユダヤ人である。彼はそれ以後、今日にいたるまで20年近くもCEO(最高経営責任者)の座を務めている。
現在、「ディズニー社」は、マイケル・アイズナーを含め、3人のトップ・エグゼクティブの全てがユダヤ人によって占められている。
僕はユダヤ人を肉眼で観測したことがない程度の距離感なので、特にユダヤ人については好悪の感情も利害関係も直接的にはないのだが。まあ、興業の世界ではユダヤ人が強いということは知識としては知っている。そして、民主主義政治も興行の側面が強い。まあ、それはそれとして。この話は難しい割にアニメの作品評論自体にはあまり関係ないので割愛。
ちなみに、富野監督はユダヤを意識して作品を作っていると明言しているし、その上でのMay J.起用である。
http://www.yatate.net/kiji-kikaku/atom/atom012.htmlwww.yatate.net
2002年11月の末[オーバーマンキングゲイナー]の制作に忙しいスタジオにご存知富野由悠季氏を訪ねた。
富野「“Vガンダム”の時にもう1つ突きつけられた事実としてあります。東京エリアでソフトウエアのプロダクション創るってことに関しては基本的に興味なくしましたね。一番の理由は、自分にその力がないから日本人の気質で、もう100年ぐらい経たないとそれは出来ないだろう。ユダヤには勝てないだろうっていうことも分かった」
高橋「これからの10年間というのは何やっていくの?」
富野「ユダヤなりハリウッドなりに勝つために正確なのことを俺よりも20か30若い奴に教えていく、それだけです」
高橋「そういうこと」
富野「だから今“キングゲイナー”をそういう意識を持ってやってます。自分の為にやってることってほとんどない。だって自分の為にやって何が起こる? これから来年死ぬかもしれない、10年後に死ぬかも知れない自分の為にやることなんてたかがしれてるもの。今年の年収、来年の年収、国民年金はろくなお金入って来ないにしても・・・・」
本日高畑勲監督の訃報を聞いたのだが。富野由悠季監督は16年前から「来年死ぬかもしれない」と思いながら7年もGレコの企画をしたり4年もGレコの劇場版の演出をしたりして、ちょっと何者かよく分からない。死ぬ気があるのかないのか。本当に現場のアニメーターに迷惑をかけるようなことだけはしないでほしい。
そんな富野監督の高畑勲評。
https://t.co/DsXKO2fb6k
— シャア専用ブログ (@Char_Tweet) 2018年4月6日
富野 僕にとっての高畑監督のイメージは「赤毛のアン」のOP。腰抜かしたもんね。これやるか、って。アニメって本当に素敵だと思ったもん。OPが好きなのは、造形的にとかああいうキャラクターを使ってとか、
富野 馬車が空を飛ぶイメージみたいなものをオープニングというタイトルの中でやっていて、毎週毎週見せるような、つまりショーにしてる訳です。
と、オープニングテーマをショーとして見せる赤毛のアンを富野由悠季監督は評価したのだが。
では、ミュージカル映画アナと雪の女王の主題歌で大ヒットを飛ばしたMay J.氏を起用してのGのレコンギスタの後期OPがショーだったのかと言うと、ショーではないと思う。
むしろ、ショー的な楽しさよりもメッセージ性が強いオープニングアクトであったと思う。
。決定的に『アナ』が強いなんてことはあり得ないので、受け手が脳内で補完することによって理解したり想像する部分はものすごく多くて、表現するものが全部リアルになっていいというものではないんですよね。
アニメのほうが表現としては記号に近いってことです。記号を使って物語を伝えるときに、正確に物語のメッセージを伝えることができるのがアニメの性能なんです。
むしろ積極的にその記号性という部分に寄り添って物語を作っていこうと思って、僕の場合、『G-レコ』では物語というより今回はメッセージ、次の世代の子供たちに考えてもらう課題を明確にいくつか設定しました。
それで、Gのレコンギスタはオープニングテーマ用のアニメーションは作画されず、本編の映像の編集となった。オープニングテーマの美麗な歌唱に合った壮大なアニメーション作画で盛り上げる、と言うことにはならなかった。(これは予算の関係もあるかもしれない)
それは富野監督にとっては番組終了後、「映画ではなく設定紹介になってしまった」という反省にもなるのだが。
メッセージ性を取るか、ショービズを取るか、なかなか難しい所ではある。
しかし、当時大ヒットしていたアナ雪のMay J.氏をガンダムに起用!!と言うことでユダヤ資本的広告代理店風のテレビ広告やケツ持ちバラエティ番組で話題性を高めて売る、と言うことはGレコに関してはなかった。May J.氏は「ありのままで」で2014年の紅白歌合戦に出場したものの、Gレコの歌では出ることがなく、水樹奈々のヴァルヴレイヴに2年連続出場を許した。(いや、僕はハートキャッチプリキュア大好きおじさんですが)
当時のMay J.さんはディズニー資本の売り方と松たか子を立てる日本歌舞伎界の広報戦略のはざまでバッシングを誘導されていたりしたらしい。
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Let It Go ?ありのままで? (映画『アナと雪の女王』)
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tocana.jp
May J.といえば、一昨年、映画『アナと雪の女王』の主題歌を歌って、激しいバッシングにさらされたことも知られるが、そのMay J.が最近自伝『私のものじゃない、私の歌』(TAC出版)を出版。その中で、当時の心境や、バッシングについての分析を赤裸々に告白した。
〈「あのバッシングを乗り越えたから、強くなったのでは」みたいなこともよく聞かれるけど、強くはなってないですよ、全然。
特に、"アナ雪"ブームのときは人前で話すことがものすごく怖くなって。ただでさえトークは苦手なのに、ここでさらに怖くなってしまった。それはトラウマでちょっと残っていて、いまでも、なんか言ったらヘンな風に取られるんじゃないかって用心しちゃうんですよ。当時は本当に発言ひとつひとつを批判されていましたからね...〉
ユダヤ人を虐殺したナチスを広報戦略を巧みに用いたが、戦後はユダヤ人がその路線を引き継ぎ、テレビの電波とインターネットで芸能人は実力ではなく「空気」で食わされたり傷つけられたりする。そして愚民たちはそれを許し、自分たちで責任を取ることはない。愚民は数が多すぎるので絶滅させられることがないだろうという甘えた態度で生きている。核兵器があるというのに。
それで、ガンダム Gのレコンギスタの後期オープニングテーマの「ふたりのまほう」の収録前日にMay J.氏の声が出なくなるということがあったらしい。
www.lisani.jp
May J. このレコーディングの前日に喉の調子を悪くしてしまって、少し延期してもらったんです。それで、治って初めてのレコーディングがこの曲だったので、すごくいろんな思いが入っていますね。「あー、歌いたい!」って気持ちが全部この曲で爆発してます(笑)。さっき話したような、「離れている二人」というのを思い浮かべながら歌ったんですけど、私にとって挑戦するところが多い曲でもあったんですね。サビではバイタリティ溢れる感じで歌を届けたかったし。だから、一つ一つの言葉の重みをかみ締めながら、そしてパワフルさを意識して歌いました
――富野監督とは「ふたりのまほう」を歌う前に色々とお話をしたとか。
May J. そうなんです。主題歌を歌うことが決まった後、制作チームの皆さんとミーティングをしたんですけど、そこで初めて富野さんとお会いして。最近の世間話から、世の中に対しての怒りや考えまで、たくさんお話をしてくださったんです。そういうことを踏まえて、子供達に大人達が胸を張って届けられるようなメッセージを込めた楽曲にしたい、とお話しされてました。「今の世の中を作った大人が犯した間違いを、子供達には繰り返してほしくない」「子ども達にはもっといい未来を作ってもらいたい」って。だから、「広い意味での愛がテーマになる曲だな」とは感じました。
――富野監督は怖くはなかったですか?
May J. 厳しい方だと伺っていたので初めは身構えていたんですけど、優しかったですね。話をずっと聞いていたい感じでした。
――歌詞については?
May J. 一つ一つの言葉にいろんな意味が込められていて、いろんな解釈ができる歌詞だと思いました。だから、「これはどういうことなんだろう」って自分なりに考えたり、分からないところは作詞家の方に聞いて意見を交換したりしてました。「ふたりのまほう」って、男女でも親友でもいいんですけど、「前は一緒にいたのに何かの理由で今は一緒にいられないけど、またいつか一緒にいられたらいいよね」っていうストーリーが含まれているんですね。だけど、2番がもっと「深い」曲になっていて、そこが富野さんの仰っていた子供達へのメッセージになっていると思っています。“間違わないように 後悔しないように”とか、未来の自分が「あの時自分は正しいことをした」と胸を張れる人間になろうというメッセージを感じました。富野さんからは何回も何回も歌詞の書き直しがあったらしくて。それこそ「全部」って時も。それだけ細部にもこだわって作っていらっしゃるのだと感じました。
アナ雪のアニメとしては、僕は目がぎょろぎょろし過ぎと言う一点において好きではない。しかし、歌は上手いと思う。「ありのままで」と言って女王が職務を放棄することや、山奥に引きこもって、それで豪華なドレスや食事は魔法で出たらいいのか?という疑問はある。なので、アナ雪の「ありのまま」や「真実の愛」(小児的衝動性に過ぎないのでは?)には僕自身は懐疑的で評価は低い。しかし、まあ、歌としてはよくできているし歌もうまいと思う。
それを富野由悠季監督はどうにかこうにか取り込もうとしたようだ。売れたかったのだろう。
同時に、富野監督は純粋な人なので、テレビやネットでバッシングされているMay J.氏に対して「世の中に対しての怒り」や「今の世の中を作った大人が犯した間違いを、子供達には繰り返してほしくない」「子ども達にはもっといい未来を作ってもらいたい」ということを話したそうだ。
当時バッシングされていたMay J.氏の復帰作としてGレコが話題になってほしいという気持ちも有っただろう。
実際、バラドルとして当時ちょっとバカにされていた森口博子氏が機動戦士ガンダムF91の主題歌にZガンダムぶりに起用されて、F91の続編はぽしゃったけど森口博子さんは紅白歌合戦に出ましたからね。今もパチンコのZガンダムの主題歌を歌ってるし。(富野監督がパチンコのガンダムに口を出しているかは知らない)
富野監督も興行師として、そういう芸能人の話題つくりの目算はあっただろう。
「ふたりのまほう」の作詞は小室哲哉プロデュース楽曲を多く手掛けた売れ筋作詞家の前田たかひろさんなのだが、富野監督のリテイクもかなりあったらしい。なので、井荻麟クレジットでないということで富野ファンからも無視されやすい曲であるのだが、やはり富野色のある歌ではあると、僕は思う。僕はね。
前田氏はアナ雪の劇中の方の「Let it go」をミュージカルで演じた松たか子さんには 「真冬のメモリーズ」と「ごめんね。」の作詞をしたが、May J.氏には「ふたりのまほう」しか提供していないらしいので、ここら辺の「さすらいの太陽」みたいな作詞家先生の政治的な動きはよくわからないのだが。とりあえず、May J.氏によると富野監督からの詞に対する指示もかなりあったらしい。また、2番の歌詞などは明らかにヒットソングとして気持ちよく韻を踏むことよりもGレコのメッセージを入れることを優先している歌詞である。
しかし、まあ、なぜか一般人のテレビ的にはMay J.はアナ雪の後消えた芸能人という扱いになっているようだ。EDのGの閃光を歌ったハセガワダイスケさんはジョジョの歌を歌ったり、菅野祐悟さんのコンサートに出たりしているのに。May J.さんも新作を出している。でも、テレビに出てないと消えたって言われる。
そういうテレビの雰囲気を作っているのが愚民であり、そういう愚民の再生産を止めたいって、富野監督は言ってるんでしょう!!それが!予算の無いバラエティ番組よりもさらに低俗なYouTubeの広告収入に踊らされて子供も思考力を奪われているという現実があるし、それがメディアってもんなんだよな!!まったくさあ!
と、外野の話をしたのだが、Gのレコンギスタの後期EDのMay J.氏の「ふたりのまほう」が大ヒットせず、Gのレコンギスタ自体もファーストガンダムとか森口博子氏の紅白出場と言うほどの社会現象には成らなかった。それは、Gレコの富野監督の演出付けのまずさと言うのも、一因として認めざるを得ない。演出のまずさと言うか、僕は好きなんだけど、一般的な受け入れられやすい方向から外れている。
水は低きに流れるのです。だから愚民は愚民のままでいる方がエネルギー効率がいいのです。そして、民主主義選挙においては数が多い属性、つまり「わざわざ自分で賢くなろうと思わない大衆の愚民」が常に勝利するのです。そして世の中は常に愚かで責任が曖昧なままくだらない未来に突き進むのですが、富野由悠季監督は今回のGレコで「全体主義に対する批判」をテーマに掲げたり、「今の世の中を作った大人が犯した間違いを、子供達には繰り返してほしくない」と言っている。だからヒットしないのだ。
愚民はありのままで愚かで衝動的で本能的な動物的な自分を肯定してほしいし、そういうコンテンツにしゃぶりついて大ヒットさせる。啓蒙主義は本質的に愚民とは相性が悪いのだ。もちろん、フランス革命~ロシア革命の頃など、啓蒙された愚民が数を頼りに王室を虐殺する風潮はあった。しかし、その結果、人類の知性レベルが本質的に底上げされたのかと言うと、そうでもない。そこで、WWII以降、民主主義の多数決システムがさらに愚民を厚遇した。また、政権側としても資本家側としても大衆は自分で考えずにメディアの都合で投票を誘導される動物として繁殖させられておいた方が何かと都合がいい。労働力としても、市民としても、法律のことを教育されないまま資本家や役人に使われる方が都市機能としてはコストが削減できるのだ。
Gレコはそういう都市愚民的大衆の権力に対して歯向かった、バカな作品なんです。自己破滅型なんですよ。だからMay J.氏を起用してもメディアの後押しは得られなかった。
愚民の水は低きに流れる、ということを意識しつつ、「それを意識している僕たちは賢いんだ」という安寧のままオタクに娯楽を提供してきたのが押井守監督や神山健治監督などの攻殻機動隊とかパトレイバーなどのラインなのだが、富野監督はどうやら「愚民を再生産させじ」という啓蒙思想でGレコを作ったようだ。そういう態度の顕れがオープニングテーマの演出に繋がっている。(やっと作品本体に文章を寄せられたぞう)
- Gレコのオープニングテーマの演出の何がなんで売れなかったのか
もう、とにかくオープニングテーマなどと言うのは爽快感と雰囲気で良いのである。ぶっちゃけた話、音と映像を合わせたオープニングテーマつくりは富野監督は海のトリトンからお手の物なのである。それがやらなかった。予算やスケジュールの問題もあるだろう。監督が忙しいなら、若手演出家やアニメーターに曲とタイムシートを渡せばそれっぽい映像は上げられただろう。しかし、そうしない。なぜか本編のツギハギ。これは一般人から見ると手抜き作業で廉価版に見える。赤毛のアンのオープニングのようなバケツ一杯泣かせるショーになっていないのである。
新世紀エヴァンゲリオンというアニメのオープニングテーマの残酷な天使のテーゼの作詞家の及川 眠子さんは本編を一切見ないで作詞したというエピソードは有名であるが、とにかくこの歌は売れたしアニメもヒットした。オープニング映像がリズムにあってて気持ちいいからである。エヴァンゲリオンは当時の宗教オカルトブームとかを反映して、オウム真理教のようにいろんな宗教の要素を広く浅く入れ込んで(まあ、ブルーシードが日本神話を入れ込んだキングレコードのアニメの流れはあるんですけど)、それっぽさをちりばめた感じのアニメなんですが、そういう情報の散りばめを歌のテンポに合わせてアニメーションを作ると実に気持ちがいい。だから売れる。実際中学生の頃の僕も買った。
あと、森口博子氏が近年歌っている「CR フィーバー機動戦士Zガンダム」の鳥籠の少年。まあ、パチンコの暇つぶしの音声なのだが。パチンコ用アニソンと言うジャンルはパチンコにあんまりいかないオタクにはあまり知られていないが、とにかく高揚感を煽り、金を払わせ、引くに引けない雰囲気を作るような音楽のジャンルである。ベルサイユのばらやあしたのジョーのパチンコとか、まあ、矢吹丈自身もパチンコ中毒のカスだったので、あまり正面からは批判しにくいのだが、アニメの世界観とはあまり関係なく、とにかく前向きにさせて「突き進め」「耐え抜け」「明日がある」みたいなワードを入れ込んでパチンコの作業をさせる(パチンコは作業自体は糞みたいに単調で退屈である)気持ちにさせる。森口博子氏もそれは承知しているようだし、エヴァンゲリオンもマクロスもパチンコで新作を作れている。
その「鳥籠の少年」。この曲に出会ったときにはどのようなことを感じられたのでしょうか。
森口 イントロから「キター!」ってテンションが上がりました。何百曲とある候補の中から選ばれた楽曲なので、力があることは間違いがないです。パチンコをしているときに流れる楽曲という事で、イントロからアドレナリンが出るようなゾクゾク感はマストの要素だったんですけど、そういう曲がすごくたくさん集まってきたんですね。「作家の方たちも『ガンダム』を愛しているんだな」と感じるくらい、想いが溢れる楽曲ばかりで「どれもいい曲!」と幸せな悶えがあったんです。その中でこの「鳥籠の少年」はイントロから皮膚感覚でゾワゾワと気持ちがあがっていくような感覚があったことと、昭和の懐かしいテイストも残しつつ、日本人の琴線に触れるような歌謡曲テイストの中の躍動感がたまりませんでした。それはZ世代の人たちには刺さるな、と思ったことが決め手でした。
それから歌詞は、カミーユの繊細な想いを感じたんです。「心の殻を破って飛び出そう」と口で言うのは簡単だけど、最終的にはどんなに周りがサポートしてくれても「やるんだ」って踏み出さないと始まらない。
entertainmentstation.jp
心の殻を破って飛び出してやることがパチンコかよって気持ちもなくはないのだが、とりあえず博徒と言うのはそういうものである。(カミーユが実際にやったことは殺人とテロ組織幇助なので、パチンコの方が市民的ではある)
- アーティスト: 森口博子
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- 発売日: 2018/02/14
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でも、ダンバインとかZガンダムとかがパチンコになったとして(それの資金がどのように富野監督に流れているかは私は調べていないので知らないのだが)、そういう愚民を愚民のままにしておいてカネを落とさせるような演出はGのレコンギスタはしていないのである。啓蒙的なのである。こざかしいのである。だから売れないのである。まだバカなヤクザが分かりやすく醜態をさらすオルフェンズの方がネタにしやすいしリズムネタの二次創作動画に使われやすいのである。きぼうのはなー。
なぜ啓蒙的なGのレコンギスタが売れないのかと言うと、愚民の方が多いし愚民はアホなので財布のひもが緩いからなのだ。僕も睡眠薬とウォトカを飲んで夢遊病になってFGOで5万円溶かしてマーリンの宝具を3にしたので、まあ、そんなに偉そうなことは言えないのだが、まあ、理知的な物は節制的であり、散財には結びつかないとアリストテレス先生も述べている。
雰囲気に流されて無駄遣いさせた方がたくさん儲かるのだ。
いや、僕もずっとブログを書いて理知的に過ごしていればソシャゲなんかしなくてもいいんだけど、底辺の労働者として不眠症のリズムをぶち壊されながら労働すると娯楽はソシャゲと酒だけになり、過労になると夢遊病になってガチャで爆死するくらいしか手っ取り早い自傷行為ができないのである。(リストカットもそれなりに腕力を使うし、血の始末もめんどくさいし)
話がそれましたが。
ここからが本当の地獄だ。
- じゃあ「ふたりのまほう」は何だったのか
ショーでもなく、雰囲気でもなく、リズムでもなく、アニメーションとしての爽快感優先でもない「ふたりのまほう」とはどういうアニメソングで、どういうオープニングテーマだったのか。
で、前述の富野監督のインタビューに戻るのだが。
僕は坂口安吾の歴史探偵方法論のフォロワーなので自分の好き嫌いよりも物証証言主義なのである。
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決定的に『アナ』が強いなんてことはあり得ないので、受け手が脳内で補完することによって理解したり想像する部分はものすごく多くて、表現するものが全部リアルになっていいというものではないんですよね。
アニメのほうが表現としては記号に近いってことです。記号を使って物語を伝えるときに、正確に物語のメッセージを伝えることができるのがアニメの性能なんです。
むしろ積極的にその記号性という部分に寄り添って物語を作っていこうと思って、僕の場合、『G-レコ』では物語というより今回はメッセージ、次の世代の子供たちに考えてもらう課題を明確にいくつか設定しました。
3Dとかデジタルワークといったものをやってもらうことはあるだろうけど、それ以上にやる必要はない。むしろうかつに深入りしていくと、『アナ』を追っかけることになって自爆するだろうということです。『アナ』のことで僕が一番マズイなと思ったのは、これで誤解する人がまたいっぱい出てくること。だから、久しぶりにスタジオで現場の空気を見たときに、今回話したようなことを企画者とか演出というレベルがどこまで理解しているのか、ということで、敗北感に取り憑かれてるんじゃないかなと想像するわけです。
——企画や出資をする人たちが安心のために「もっとリアルに」と言っていると思うのですね?
富野:企画者とか演出、シナリオを書くライターまでが「リアルに売らんかな」というところにだけ行っちゃっているでしょう。メッセージ性や物語のことを考えれば、手描きのアニメでやるからこそ、本当の意味での夢物語が作れるはずなんです。それをリアルに作っていたら、誰も観に来ないよね。だから、アニメを作るということの意味は何なんだろうかと言ったら、まさに夢とロマンを貼り付けていく物語を作っていくところにあるんじゃないのか、と思うわけ。10年ヒットしてるシリーズアニメは何か考えれば、アニメだから許される物語なんだっていうところにきちんと定義していくというのが一番大事なことで、アニメという表現媒体の性能を理解して企画を立ち上げていく、作品を作っていく、というのがアニメに関わるスタッフにとって一番大事なんじゃないかということです。
と、こういうことなんである。つまり、Gのレコンギスタのオープニングテーマの演出は、うかつなリアルさや、雑なテクスチャの貼り付け(けっきょくアナの肌のそばかすって演出的に意味あったの?)とか映像としての端正な綺麗さではなく、受け手が鑑賞する中で脳内に浮かんでくる夢とロマンとメッセージを想起するようなアニメーションの記号の使い方を模索した結果なのである。
売れるか!
富野由悠季、愚民を買いかぶったようだな!はははははは!愚民どもがそこまでお前のアニメーションを注意深く読み取ってくれると思ったのかい?期待しすぎなんだよ!愚民どもがそこまで賢くなれるかい!奴らが理解できるのは支配階級やメディアの雰囲気やポジショントーク、せいぜいどっちが金を持っていそうに見えるかって程度の関心しかないんでさあ!
富野由悠季よおっ!お前はリズムに合わせてアニメーションを作ることくらいは30年前にやりつくして飽き飽きしてたんだよなあ!だからってアニメーションの記号で暗示されたメッセージを子供たちが反射神経と生殖!それで読み解けるようになるほど人間は上手くできちゃあいないんだ!それをお前は!アナと雪の女王程度のヒット作にそそのかされて!
ほとんどの、アニメを含めたバラエティーやニュース番組を見ると、それはユーチューブや政治団体のホームページでも共通しているのだが、「点数や識者の権威やお値段や被害者数を論拠にした一方的な情報を見せる」という一方的な物が多い。Gのレコンギスタはそうじゃないでしょう?僕は好きだけど、それだと愚民に埋め尽くされた地球のメディアでは売れないんですよ。
富野監督は子供を啓蒙したいようだが、受け手はメッセージを脳内で補完して想像する、と言う程度の労力を払う気もないのだ。単にその場の雰囲気に反射的に興奮する程度の動物にすぎんよ。けものフレンズもポプテピピックもゆるキャンも輝夜月もヒカキンもビートたけしもめちゃイケもな・・・。動物的な狩猟や暴力や食事や群れのヒエラルキーのメタファーを娯楽に落とし込んでいるにすぎん…。愚民どもがメッセージとかストーリーを読み取った上で思想を自ずから想起できるものかよ!
愚民どもに一番夢を見てるのは富野監督じゃない!コスモ貴族主義を立ち上げたころのあなたはもっと愚民に絶望していたじゃない!それが!孫を手に入れた程度で!もっと、こう、エゴを強化しなければ!愚民は御しがたい!
- ショット分析
スクショターイム
ふたりのまほうの演出、本当にひどい。何がひどいって、たいがいのアニメのオープニングテーマは本編を紹介しつつ本編を見ようとする視聴者の気分を高揚させチューニングするものであるのだが。Gレコはそれの入出力が逆。本編を咀嚼した視聴者が反芻する形で「ふたりのまほう」を見て思いを新たにするような作りになっている。そのため、自然とハードルは上がる。
しかも新規映像でないというだけでバカにされるし、本編を見てなくてもオープニングだけ見て面白いと思った新規層を取り込めず、本編を見てても理解してない視聴者を振るい落とすような作り込みになっている。
いや、僕は好きですけどね?でも、僕はちょっと富野監督の作品を見すぎているし現実に絶望しているので一般的な感性は持っていないんです。そして、一般的な感性を持っている愚民と言う人々の方が人口の10分の9を占めているのです。そこに訴えかけないと、売れないしネタにもされないのが興業の世界なのです。
まず、イントロから何の説明もなく主人公が「映像の原則の悪の左側」から敵の足をもいでいくところから始まる。
いや、もがねーやろ、フツウ。
もいどる!やろがい!
ここで、「ベルリが主人公で、マスクがライバルで、G-セルフに主人公が乗っていて、マスクのマックナイフの脚をもいだことがある」という本編の知識がないと、まず意味が分からない。
いや、いきなり脚はもがへんやろ…。
もいどる!
やろがい!
もうね、ここから富野監督の演出意図が炸裂してて、僕みたいな富野アニメで育ったようなスペシャルなニュータイプ(ウッソと同い年で碇シンジと伊佐未勇とも同い年だった)だと、まあ、「富野監督だなあ」って暖かさすら感じるけど、テレビ番組のオープニングとして毎週いきなり前奏から敵の足を捥ぐ作り方は異常である。普通じゃないよ…。
もう、これは演出意図と言うか明確な意思表示で、オープニングテーマを娯楽として気持ちよく見せるというより、「ベルリと言う主人公はいきなりマスクの足を捥ぐようなやつだし、そいつが主人公のアニメをこれから見せるからな!」という宣言です。そうと考えない限り、いきなりファーストカットで足を捥いだりはしない。(まあ、ファーストガンダムのOPのファーストカットの地球を覆う光はコロニー落としの核爆発なんですけど(※要出典))
とにかく、ベルリはどんなに表面的に温厚そうに見えても本質的には足を捥ぐようなやつだってことを毎週視聴者に訴えていくスタイル。これが、まあ、通して見ると演出として「そりゃ、毎週初手で足を捥がれてたらマスクもカバカーリーでキレるよな…」という伏線になってるんだけど、そんなの僕でさえ番組終了から気付くのに3年かかってるしな。
ふたりって誰やねん。みたいな
「ふたりのまほう」って、男女でも親友でもいいんですけど、「前は一緒にいたのに何かの理由で今は一緒にいられないけど、またいつか一緒にいられたらいいよね」っていうストーリーが含まれているんですね。だけど、2番がもっと「深い」曲になっていて、そこが富野さんの仰っていた子供達へのメッセージになっていると思っています。“間違わないように 後悔しないように”とか、未来の自分が「あの時自分は正しいことをした」と胸を張れる人間になろうというメッセージを感じました。
とMay J.氏はおっしゃってるんだけど、アイーダさんが映るより先に初手でマスクとベルリの「ふたり」なので、姉弟とか家族とか男女の「ふたり」より先に「にくいあんちくしょう」のふたりを暗示するフィルムの絵の置き方になってて、それは歌手のMay J.さんも想定してないでしょ。マスクとベルリの二人の関係って男女でも家族でも親友でもないけど、めっちゃめんどくさい関係じゃないですか。まあ、そこがGレコのすごくいい所だし、やっぱり出崎統のあしたのジョーのどさ回り編の富野コンテとかで育った僕としては「にくいあん畜生」とか「あしたのジョー第47話嵐の前のふたり(富野演出)」の方がヒーローとヒロインの関係よりも深くしみいるものがある。でも、ロボットアニメのオープニングでこんな事やられたって、子供にはわからない!伝わらないんだ!
んで、マスクとベルリ、ベルリとアイーダの「ふたり」かと思わせておいて、「アイーダとカーヒル」「ベルリとデレンセン」のつらい思い出も消えないって、また別の「ふたり」を出してくるでしょ。うわっってなる。痛快ロボット活劇に見える絵柄で、大ヒットアニメのアナと雪の女王を歌ったMay J.氏のフェミニンな歌声に乗せて、毎週最初から恋人と恩師を殺したことは忘れられないし消えない、って念を押される。
し
ん
ど
い
。
いや、それはもちろん、人の死や戦争を取り扱う富野監督なりの真摯さだと思うんですが、こう、メッセージ性の強い歌詞と歌声で、しかも本編の素材で毎週死を思い起こさせ直させられるのはアニメ番組のオープニングとしては結構きついものがある。オルフェンズはヤクザだし殺し合いだけど、歌はなんか売れっ子バンドのKANA-BOONが爽快感と疾走感と闘争心を刺激するようなかっこいい感じだったじゃないですか。
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輝きは刹那で、とわなくとも手を伸ばせですよ。パチンコ遊戯曲みたいに雰囲気で盛り上げていく感じですやん。それがロボットアニメの主題歌ってもんだろ!もっと楽しく殺させろよ!ハニワ原人全滅だ!なんで2クール目にもなって、2か月も前に殺したやつのことを毎週思い出させるんだ富野おおおっ!思い出させるなあぁつ!僕はっ!僕は悪くないっ!
で、抱きついたぬくもりって単に温かい関係というポジティブじゃなくて、決死のデレンセンからビーム攻撃を受けてリフレクターパックで吸収して殺してクリムを助けた時の大気圏突入の死線のぬくもり、って言う修羅の境地ですよ。May J.氏の歌声はフェミニンだし曲調も穏やかなんだけど、アニメの映像はかなり意図的に「殺した相手の血潮のぬくもり」「それを戦士よ忘れるな」というかなりヤバい絵を見せてる。「どうせ総集編っぽく曲に合わせて本編から似たようなシーンをツギハギしてるだけやろ」って高をくくっていると、ここで後から「しかし、デレンセン大尉は生前は暖かかった」という低速度遅効性印象攻撃を食らうわけです。
※(追記)アイーダが抱きついて泣いたり笑った相手はベルリじゃなくてカーヒルだよなあ、って言う感触もあって、まあ、単純に男の子のロマンスとして楽しく見せる演出ではない。
ここの絵のチョイスを富野由悠季がなんとなくのカッコよさだけで選んでるわけないでしょ。キングゲイナーとサイバーフォーミュラのオープニングを手掛けた富野やぞ。確実に意図をもって攻めてきている!視聴者にも歌い手にも分からないようにオープニングテーマの編集の隙間から!逃げろーっ!ジャイロォーーーッ!これはスタンド攻撃だーっ!
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で、ここでやっとタイトルが出るんですが、ここで抱きしめあってる相手、5話の「ハッパさん」なんですよねえ・・・。コアファイターで挟んで圧迫死させそうになりながら命がけで45秒間だけ飛んで必死に迎撃をした「ベルリとハッパさん」の「ふたりの魔法」。ヒロイン、ハッパ中尉だったの?このG-セルフはお腹にハッパ中尉を抱えているわけで。
せめてノレドにしてあげて…。いや、ハッパ中尉とベルリの絆は結構腐女子視点から見ても結構おいしいんですけど…。「ベルリの戦争」でハッパ中尉が無断でガンダムを動かして暴走するベルリを「やっぱり勝手に出るんだ」って笑って見送ってるところとか、完全にできてるよね、この二人。
この生まれ変わりって言うセンテンスもピーキーでさあ・・・。2クール目に序盤を振り返ってるだけに見えつつ、ラライヤはもうマンディには戻れないし、髪を切ったマニィはチアガールに戻れないし、ルインとベルリは学生時代に戻れないし、人生は何度でも立場を変えてしまうんだよなーーーーって言う、こう、おじさんの心をえぐってくる。
セピアをかけてくるのがまたえげつない。
鉄腕アトムの昔から宇宙ロボットって夢や未来への希望の象徴だったのが、それを嘆かざるを得ない時代になってしまった試練の時代なのです。
ここで、ベルリとアイーダだけで「ひとりじゃない」っていうと、まあ、男女とかヒーローヒロインとか姉弟とか家族とか、そういうあったかい共同体があるから一人じゃない、って言う意味合いなんですけど、「取っ組み合いをしてお前を宇宙で殺そうとする学校の先輩(コスプレマスクマン)との関係も含めてひとりじゃない」という。やっぱりあしたのジョーじゃん。ぬくもりは暖かい女性とのリラックスした関係だけじゃなくて、殴り合ってる二人の間にもぬくもりはあるんだよなあ、っていう剣豪小説かよ!
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まちがわないスコード教の1000年の教えのレールにそって真っ直ぐ生きていたころのベルリ
そうしたかったけど、レールから外れて宇宙空間で弾道飛行しつつモビルスーツのロケットで無理やり空を飛んで、リフレクターパックで殺す。
後悔なんて誰もしたくないけど、やっぱり生きてたら後悔せざるを得ないのです、せざるを…。
姫様のアイーダもきれいなだけじゃなくて、弟のガンダムに取りすがって中原麻衣が乗ってるマックナイフを狙撃するでしょ。(ここでバララ・ペオールのマックナイフ、G-アルケインのビームランチャーを胸部に受けたんだけど、なんでバララが死ななかったのか、かなり謎。拡散したビームの破片だけが着弾したんだろうか?)
オルフェンズのファイターとかオープニングソングで、「報われなくても俺は戦って散るぜーっ!」という特攻兵のイケイケドンドンの高揚感を煽っているけど、Gレコのオープニングは死地を乗り越えて生き延びた戦士が自分の戦いが間違いだったのか思い返したり後悔したり、それとは関係なくやっぱり戦ってしまったり、というかなり複雑な感情を描いている。書き下ろしじゃないのに、編集素材で。ツギハギの富野のエイゼンシュタインのモンタージュ暗示演出のオーバースキル…ッ!
「いきていたいから!」(戦う!)
ではなく
「いきていたい、けど・・・」(戦う…)
この語尾のニュアンスの違い…。
これをMay J.さんに歌わせる。我慢してアナ雪を見たけど、アナ雪はジェンダーとか家族愛とか同性愛とか多様性とか、リベラルっぽさが評価された面もあるけど。「ありのままでー!」って職務放棄した女王が歌いあげたり、何にも考えてないアナが場当たり的にとりあえず近くにいる男性に当然のように依存したり(アナの「自分は愛されて当然」という子供っぽい女性らしさは反吐が出る)、エルサのピンチで衝動的に自爆して、「それが真実の愛だよー」とかなんかよくわかんねー原理不明の魔法がどうとかでユリ承認されてちやほやされるわけですけど。
アナと雪の女王は、まあ、ディズニーってこともあるし、まあそんなに大層な理屈や理論はないし、雰囲気です。幼児的な衝動性です。精神年齢は低いです。それをデコデコしたCGのテクスチャで権威付けしてるんでしょ?(ていうか、本当に雪を表現しようとしたら、あんなガラス細工のような雑な屈折率のCGにはならんやろ。出崎統の雪の女王の方がよっぽど雪の冷たさと痛さを表現できていた。しかし、それを宮崎駿と鈴木敏夫と癒着しているディズニーのジョン・ラセターは無視する!当然のように踏みにじるんだ!生まれ持った売上でな!)
アナ雪は「ありのままに、やりたいようにやったらハッピー!」(イヤボーンで奇跡は起こるし、愛は成就ずるし悪は滅びる)という、かなりお花畑なアニメ映画なんですけど、そんなの、富野監督は20年近く前の∀ガンダムでとっくに通過しているので。
ディアナ女王がありのままにやりたいように地球でいきていたいからーってやったら、戦争が泥沼化して部下は飢えて略奪をして子供が雪の降る街で物乞いになるのを目撃する羽目になる。アナと雪の女王の国とか社会の描写はシャレにならないくらい薄いしアメリカ人がトランプを大統領にするのもよく分かるような独善なのだが。∀ガンダムのディアナ様、やりたいようにやったらガチで国民が餓死するし戦争は拡大するしな。それでまあ、引責辞任して、って言う風にも見える黄金の秋なのだが。(そして次作でシベリア鉄道送りへ…)
「ありのままで生きていけるわけないじゃない!お前には個性が無いんだ!それをわかれ!」って言うのが富野監督なので、端的に言ってアナと雪の女王とは正反対の思想です。
そこを歌手のMay J.氏にアウフヘーベンさせようとするのがかなり強引で、ちょっと、引く。
で、歩き出す(そして殺す)と言うことと
女に気を取られて立ち止まるということの二つの勇気の中庸の美徳をアウフヘーベンをベルリ少年に問いかけるわけです。
殺す戦士なのか?活動するバーサーカーなのか?
それとも女好きなのか?手を止めて考え直す余裕はあるのか?
難しい…。単純にロボット戦闘アニメとして娯楽を盛り上げる歌じゃないよね。これ。とりあえず番組の間だけはその番組が押し付けてくる正義の一方通行的な価値観のお約束を提示するのがオープニングテーマの役割なのだが。(たとえば、普通は人を殴ってはいけないけど、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで、の中ではタイキックをしてもお金を貰って笑えるから良い、ビートたけしのような高齢者に水をかけてもテレビだからおいしい、と言う価値観をテレビを見ている間は共通のものとして持つ、スポーツ番組ではボールが所定の場所に入ると点数が入って嬉しい、アイドルは人気投票で上位だと嬉しい、と言う番組内でのお約束があるのだが)
Gレコはテレビ番組のくせにとりあえずのお約束の正解を明示せずに、「二つの極の価値観がある」「それを考えろ」とアリストテレスのように問いかけてくる。毎週。おこがましいんだよ!龍騎のテレビスペシャルかよ…。
きれいに踊る健康な女性たちは未来なのだろうか?
少年が親から託されたメダルの光は、その手に未来をもたらすのか?
で、ラストカット。
6話のジロンド部隊のエフラグのダベータイプから発射されたミサイルを回避するメガファウナにかぶせて、G-セルフで決め!
いや、おかしくないというより、変でしょ!
まず、この第6話の回避シーンは作画もいいんだけど、G-セルフはこの時点ではメガファウナとは全く違う上空にいるからね。
でも、そこを時空を歪ませて重ね合わせてオープニングのラストカットにする富野監督の感性はかなりヤバい。思いつかんやろ。
しかも、Gレコの6話は視聴者にもベルリにもスリリングすぎるから見なくていいと言われるくらい重い話なんだけど、そのミサイルを、ベルリたちの母艦であるメガファウナを狙ったミサイルを、あたかも主役メカのG-セルフを祝福する花火のように見せる編集技法のトリック。
ツギハギすることで意味を変える。これ自体は富野監督が演出家として鉄腕アトムの20代前半からやってきたことなのだが、「二つの価値観の両方が未来への条件である」と歌い上げる所で、「敵の砲撃を祝砲にすり替える」という演出でアウフヘーベンしてしまったかのように見せて、歌を終わらせるって言う。
やべええよ。
めっちゃ考えさせられる。ちょっと、アナ雪を見た程度ではこのGレコのオープニングの意図の全部に回答は出来かねる。
そもそも、Gレコの本編自体が一定の決まった価値観を提示してくれないまま世界の地平線を広げるだけ広げた後、地元の先輩と揉め事を起こすって感情の地平線を超えて、親子関係とか家族とか使命とかの因果の地平も超えて大地に立つって話なので。モヤモヤはする。
テレビ番組とか勧善懲悪アニメ映画とか真実の愛(つまり偽物の愛があるということ)を提示する分かりやすい権威付けをしてくれない。富野監督はキャリアの年月から言っても「俺はベテランなんだから、カリスマなんだから、従え!」ってやってもいいものだが、やらない。ジョン・ラセターは富野監督よりも年下なんだが、ディズニーブランドなんだから、売れているんだから、多様性に配慮しているんだから、お前らはこれを真実だと思え!ってアナ雪を作っちゃうでしょ。
富野監督は73歳(放送当時)にもなって17歳のベルリ少年みたいな感性で歩き出すか、立ち止まるか、どっちだっ!っていう所で真剣に悩んでいる。
富野監督は一時期「年寄りは元老としての役割がある」とか言ってたのに、そういう人がガチで悩んでいるし、悩ませるような映像を作る。オープニングアクトから「これは悩ませるアニメだから」みたいなメッセージを一見して手抜きのツギハギの映像と、分かりやすいアニメの代表であるアナ雪の歌声に乗せて、突っ込んでくる。こういうことをされると、ネタなのかマジなのか、どう取り扱っていいのか本当に困る。
富野監督は本当に困ったお爺さんだ。
まあ、本当に困っているのはそんな監督の下で3年も5部作(正気か?)の劇場版の作業をしているアニメーターなので、こんなブログで文句を言っている僕は頑張ってない証拠だぞ。頑張ってない証拠だぞ。
だが、ラカンの現実界をアニメの記号の象徴界を使って視聴者の想像界に突っ込んでくるのが富野アニメなので、本当に困るんだけど、こういう作風なのだから、覚悟するしかない。
- 2番
そして、アニメになってない二番がひどい。二番はもう、韻を踏むことを放棄したリズムを無視した文字の使い方になっている。
それで、片方の意見をふさぐような大人にはなりたくない!とか、アベ政権を許さない人も、朝鮮人を許さない人も、右翼も左翼も、どっちもどっちもポジショントークしかしない大人を批判してくる。
それで、明日とか今日とか、過去とか未来とか二元論的な極の両方を呑み込んでいこう、みたいな政治哲学的な歌詞を入れてきている。でも、そんなのしんどいですよね。
大抵の人は「経済成長してるやろ!」「改竄してるやろ!」「戦争してるやろ!」「憲法改正やろ!」「ひとにやさしくしろ!」「身を粉にして働け!」って二元論のどっちかにすり寄ってポジショントークして、論理的な整合性を欠いたまま不完全な想像界に閉じこもって自分とは違うポジションを攻撃して、金や資源を奪いあっていくだけでしょ。Twitterを見てれば、そんな話ばっかり。何かが正しいと思うから発言するのではなく、自分が発言したことが正しいと信じ込まないと恥をかくので、ポジショントークをするだけ。自分に都合のいいことしか見ようとしないのが大抵の人。自民党支持者も民主党支持者も共産党員も、イデアの正義を求めているんじゃなくて、自分のポジションが正しいって思いこみたいだけでしょ。
アナと雪の女王のラストの踊る大衆のように、女王への非礼を詫びることもせず、逆に女王の悪行を裁くこともせず、雰囲気に流されるガッチャマンクラウズ インサイトのサルどもみたいなのが大衆なのである。アナ雪、本来であれば大衆こそが罰せられるべきである。(それを露骨にやったのがイデオンであり、父親の大統領の式典を無茶苦茶にした後、南の島に華麗にバカンスに行ったのがクリム・ニックだ)(GATCHAMAN CROWDS insightは挑戦したのだが、いまいち臨界に達しなかった)
誰も大衆を罰することはできない。なぜなら大衆は数が多すぎるのであり、大衆を罰しようとすると罰しようとする人の方が多勢に無勢で返り討ちになるのである。ナポレオン皇帝はそれで敗れたのだ。だから大衆は飼いならして腐らせるしかないのだ。それが情報戦を交えた近代戦ね。
そんな大衆に考えろとか悟性を持てとアニメが言うことが無理なのである。アナ雪では悪い王子は真実の愛とか暴力とかで排斥されるが、そういう悪い王子とか大臣に踊らされて女王を化け物として追い立てた大衆は何の罰も受けず、明るくなった女王に踊らされて大衆は肯定される。
大衆は判断や自意識、むしろこれは選択と言うか人生の蓄積と言うか、自分で生きる実感とか覚悟のようなものを持つことも拒否する傾向にある。なぜなら大多数の人間はそこまで知性が発達しないまま労働者となって老化するからである。(炭鉱夫には青年期がないまま老人になる)
そして、マスプロダクツ化したコンテンツビジネス、映画やアニメと言ったものは当初の志や芸術性や自己批評を忘れ、大衆の本能的な甘えと偶発的な場当たり的なヒットによる金銭ガチャに狂う博打になっている…。
でも、博打的な映画作りだとさすがに勝率が悪くなってきたので、ヒットしたマンガ(アメコミ)の実写映画が増えているでしょう。
富野監督はアニメの記号性でメッセージを伝えられると言って、こういう作品を作っているけど、アナ雪の過剰なテクスチャ(しかし巧妙に似せているけど本当の雪や炎や肌の質感とは全く違うCGにすぎない)や何でもマンガを実写にする映画の状況を見ると、「大衆は記号を認識する能力もないのではないか?」と思うのが最近の僕の見識。
人ひとりには洞察力がなくても、総体として堆積し凝縮された意思は、民意といわれるものになって、ときに時流に敏感かつ狡猾に発現する。
まして、自分たちの総意を代弁してくれる一人の英雄が現れれば容易に荷担する。そして事態の進展がまずければ総意を代弁してくれた英雄を生贄にしてすますこともできるから、民意は意思の代弁者を容易に祭り上げるのである。
その英雄が民意の代弁者として立ってくれればそれでよく、次の新たな征服者があらわれれば、その英雄をスケープゴートとして差し出すことによって。民意自身は免罪符を手に入れて、新たな征服者に唯々諾々と屈服してみせるのだ。
そうすれば決定的な根絶やしにあうことはなく、次の機会を狙うことができる。これが一般大衆といわれる集団の意思のありようなのだ。けっして自らが頭領にも大将にも統治者になることもない。
これが大衆の総意がもつ狡猾さである。
だから、突出しない大衆を指弾することはできないし、また向上心をもてと命令することもできないのは、大衆はたえず頭を下げ続けているからだ。しかし、人の上に立つことが成功の証であり、立身出世の印であることを疑わない者はスケープゴートの役割がくるまで一時の自己満足に浸る。
生来、人の上に立つように運命づけられている人びとは永遠に安楽というもののないことを承知しつつ、その地位に立ってみせる。
隠れていれば狙撃されない。人の上に立とうとしない大衆は狡猾である。が、それは生きてゆくうえで必要な皮膚感からきている知恵であるので、何人も指弾しえないのだ。
そして、突出した人びともまた、いつか大衆という隠れ蓑のなかに安息の場所をもとめようとするから。その存在をゆるすのである。つまりいつか有効な存在になるのだから、根絶やしになどできないのである。
富野監督は古い人なのでエイゼンシュタインのモンタージュ技法の記号論に頼っている。
だが、僕のように精神病を長く患って社会への信頼が無くなり、親が目の前で自殺しているようになると、象徴界の記号の外に出てしまった。
「象徴界」とは、直接は言語の世界を意味するが、広い意味で社会規範の世界を含む。人間的な関係の世界は二者関係から社会的な関係へ進まねばならない、とするのだ。だが、ラカンは精神病患者の言動のうちに「象徴界」をはみ出すものを見る。この、私たちの現実の言葉や社会の秩序に収まらない無秩序な世界を「現実界」と呼ぶ。
kotobank.jp
ソシャゲのガチャの当たり演出の光る快感を得たいがために、ゲームの性能とは関係なく課金しちゃったり、無意味に暴飲暴食をしたり、アルコール依存になったりすると、まあ、記号とかアリストテレス先生の組み立てた理論とかどうでもよくなって、反射神経だけになる時がある…。
そして、おおまかな大衆も記号や理論的整合性を認識する能力がないのではないか?マンガを実写にしないと理解できなかったり、そのユニバーサルスタジオとかディズニーランドの実写とかVRのCGが粗雑でもその品質を理解するほどの芸術的感性もないゴミどもが数を頼りに経済効果とか言っているのが現代の芸能だ。
なにがVRは未来だ。脳内妹とセックスしている僕に言わせれば、あんなでかいVRゴーグルをはめたまま好きな女を抱けるわけないだろう?だが、その程度の錯覚でごまかされて腰を振るのがホモ・サピエンスってことだよなあ。下らん。
地球にもまだ知的生物はいないと言ったイギリスの皮肉屋の障碍者のスティーブン・ホーキング博士も先日76歳で死んだわけだが。77歳にならんとする富野由悠季、Gのレコンギスタの劇場版でどう戦うかな?
命あったら・・・・・・・。
(ていうか、精神障害者なのでこうやって過剰集中して執筆してるときはマシなんだが、書き上げると一気に頭痛が来るな…。息苦しい…。強化しすぎたか…)
- いつもの
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著者へのプレゼントはこちら
nuryouguda.hatenablog.com
このブログは基本無料で最後まで読むことができますが、読者は著者に物を送ることもできるし、物を送らないこともできる。(意味が分からない人は保護者の方にもGレコを見せてください)
別に憐れんでほしいわけではないので乞食行為ではない。贈与税は年間110万円まではかからない。
僕もリアル現金がたまったらサンライズ第一スタジオのアニメーターにお米券などを送ろうかと思っている。ソシャゲでリボ払いの借金が30万円ある。俺、借金を解消したら知り合いのほしい物リストから誕生日プレゼントをあげるんだ…。(フラグ)
comic-days.com
#キングゲイナーの日 #キングゲイナー
— 鈴井 玖足 (@nuryouguda) 2018年3月22日
誰の誕生日かは秘密ですが、今日はキングを讃える祭りです
#大橋巨泉生誕祭 pic.twitter.com/24ODKdhrV5
#キングゲイナーの日 を祝ってくださるピープルからジムが届きました。
— 鈴井 玖足 (@nuryouguda) 2018年3月23日
心が荒みがちですが、気にかけてくださる人がいることが一番の励みです。
昨晩は #キングゲイナー の変化ドミネーターを見ながらワインを二本空けてリボトリールを飲んだら、今日は寝込んでしまった。コロゥ剣… pic.twitter.com/z1SvQPIhLn
#キングゲイナーの日 に女性からスタンダールの恋愛論をもらったので読んでパーシヴァルみたいなイケメンになりたい。 pic.twitter.com/r0NZTdQTzd
— 鈴井 玖足 (@nuryouguda) 2018年3月23日
自殺してない方の親に誕生日を東日本大震災の日に間違えられるというブレンパワードのキャラみたいな屈辱を味わったが、粘液さん @hagetenai たちに物をもらいました! #キングゲイナーの日
— 鈴井 玖足 (@nuryouguda) 2018年3月27日
僕は必要とされてるんだ!でもうつ病なんだ!
更新できず、応援されるだけでしかもアクセスが落ちていく! pic.twitter.com/h7jYEZQb8w
完全にアイドルマスターsideMの影響で欲しいものリストに登録したスポーツウェアが届きました!
— 鈴井 玖足 (@nuryouguda) 2018年3月27日
@hagetenai 粘液さんありがとうございます!結構なおねだんで!
ファンからもらったウェアでランニングしてトップアイドルブロガーになるぞ!まずは自律神経を…… pic.twitter.com/HMpcB1ATfR
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