玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第2部第8話 感情と政治

 殺人考察では7話以降を第二部としていて、8話はアバンタイトルの回想シーンがないので7、8話は連続話。同じマスク部隊とのカリブ海での戦場なのだが、細かく見ると7話はベルリが殺人後遺症からラライヤの介護を通じて戦線復帰する話で、8話はアイーダを援護したりアイーダとの父と母のウィルミット・ゼナム長官と会談することでベルリがモチベーションを高めていく話と見れる。

  • 前回の殺人考察

nuryouguda.hatenablog.com


 では、第8話「父と母とマスクと」を見て行こう。
リアルタイム感想はこちら
nuryouguda.hatenablog.com

  • 父との出会い


 アーマーザガンが前回のラストに救援に来た島影で補給を受けるベルリ(G-セルフ)、アイーダ(G-アルケイン)、クリム(モンテーロ)の3人。補給物資を持ってきた輸送機にはアメリア軍総監でアイーダの養父、グシオン・スルガンの姿があった。彼はベルリ曰く、「アメリア軍で一番偉い人のはずだ」。(その上にアメリア合衆国大統領がいるのだが)


 アーマーザガンがマスク部隊を虐殺しながらクリム達が島の陰で補給作業をする時間を稼いでくれているので、BGMの音楽も和やかになる。

 戦場の前線に出て、部下に作業をさせながら、戦闘服を着ている愛娘と抱き合い、砂浜で紅茶を飲むグシオン。
 「何でこんな前線に?」とアイーダに聞かれて「”何で”って…」と口ごもってしまうグシオンは明らかに娘を心配してきた父親なのだが、軍のトップでもある。普通の父親らしい人間味と戦時中の軍のトップという地位のギャップを併せ持つ人物。
 彼を見て、ベルリはどう思うのだろうか?




 初対面のグシオンに対してベルリは開口一番「僕、アメリア軍に入隊しません!」とメガファウナパイロットスーツを着て言う。これはかなり失礼なのだが、戦闘中の興奮状態もあるし、ベルリの中でのアメリア軍人の印象はクリム・ニックなので入隊させようとする人だと思い込んでたというのがあるだろう。
 しかし、グシオンは笑って「かまわんさ」と。グシオンはウィルミット・ゼナムとも面識があり、ベルリが運行長官の息子と言うことも知っていたのだろう。なので、グシオンはベルリがアメリア軍に入隊するかどうかはほとんど問題ではなく、彼の職分は作戦や政治にある。クリム・ニック前線指揮官で少しでも自分の近くの戦力が欲しいのでベルリを入隊させようとしたが、軍のトップのグシオンにとってはパイロットが一人増えるかどうかよりももっと戦略的にものを見ているので、ベルリの入隊云々は問題にしない。
 しかし、ベルリは十代でキャピタル・ガードの学生なのでクリムの印象から「軍人は誰もが戦わせ、自分を利用したがる人種」と先入観を持っていた。キャピタル・テリトリィは戦争をタブーとしていたバチカン市国のような国だし、キャピタル・ガード専守防衛組織であり、さらにベルリはキャピタル・アーミィーに反感を持っている。ベルリがキャピタル・アーミィーや軍人全般に反感を持っているのは母親の影響、専守防衛の思想を学校で習ったから、タブーの意識、成り行き上でアーミィーと戦ってしまったから、デレンセン大尉を殺害した罪の意識の裏返し、クリム・ニックの強引さに対する反発など、いろいろな理由がある。
 なので、ベルリは初対面のグシオン総監との間に「僕は一般市民で、あなたは軍人で別の世界の人物です」と、境界線を引こうとしたのだが。グシオンはベルリが想像していたのと違い、軍拡を推し進めるタカ派でも好戦的な野心家でもなく、温厚で、しかし賢明な父親であった。
 ここで、平和国家に育ったベルリは改めて「軍人とは実際にはどんな人間なのか」を学習する機会を持つ。

戦争を起こさないヒントは、メガファウナにある。
メガファウナは、アメリアが海賊部隊であると偽装し、
アイーダ指揮の元、キャピタルの諜報活動やフォトン・バッテリーの強奪を行う組織。 

その組織に様々な人間が集まる。


人種や国家間を越えて様々な人々が集まったメガファウナ
彼らは地球からトワサンガビーナス・グロゥブを旅することで、
真実を知り各国間の戦争を食い止める動きを取ることになる。

元々、メガファウナに集まったクルーは好戦的ではなく穏健的な立場だ。
こうした国家間を越え、同じ問題意識を持った個人が集まることで、
本格的な戦争が起こる前に食い止めることができた。
https://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-2513.htmlnextsociety.blog102.fc2.com

 id:ohagi23 おはぎさんのこの意見は総括としては正しいのだが、各論では間違っている。ベルリやメガファウナは最初から「戦争を止めよう」という崇高な問題意識を持っていたわけではない。ベルリは単にタブーを守るスコード教の信者で専守防衛キャピタル・ガードの学生だったので「戦争をするのは良くない」と漠然と思っていただけである。むしろ、初対面のグシオンに「アメリア軍に入隊しません!」と挨拶の前に言ってしまうベルリの失礼な態度を見るに、軍人を見下している市民意識もあったのではないか?(アンダーナットでデレンセンに石を投げた市民のように、キャピタル・アーミィーを蔑視する描写もある)
 (また、個人的に私は「戦争をすべきでない」「戦争を食い止める」ということを絶対善とは思えない面がある。まあ、戦争をしているとデレステのサーバーが壊れるリスクがあるからなるべくやりたくないというレベルだ)
 スコード教のようにタブー意識と平和主義を憲法9条の教条主義的な金科玉条として守っていれば戦争を止められるかと言うと、そうではなく、むしろタブーに縛られていた反動として、やったことのない戦争ではしゃぎまわるジュガン・マインストロン司令やベッカー・シャダム大尉などのキャピタル・アーミィーの人も描かれた。なので、キャピタルのタブー意識や宗教的統治に従っていればOKという話ではGレコは無い。平和な時代の日常的な差別意識に鬱屈させられていたマスクが戦争に乗じて地位向上に利用する、という反動もある。むしろ、ベルリが3話で、キャピタル・アーミィー発足前に、なんとなくメガファウナに行かなければ、ベルリが「キャピタル政府の方針に従うため」と言ってデレンセンとマスクと一緒にアーミィーに入隊した可能性すらある。
 また、ベルリは終盤ではパーフェクトパックという無敵装備を持ちながら敵を殺さないように立ち回ったのが印象的だから「ベルリは殺人を嫌う」と言われがちだが、序盤では割と自分の身が危なくなるとカジュアルに(興奮して?)カーヒルやマスク部隊のエルフ・ブルックに対して反撃している。
 平和教育を受けているベルリだが、人間の本能として自分の身が危なくなると反射的に敵を殺してしまう。この平和を志向する理想と自己保身の現実という矛盾を、自意識として明文化、自覚せずに生きてしまう。そういうありさまをベルリ・ゼナムを通じてみることができる。何も「殺すのが正しい相手を殺し、殺さないのが正しくない場合は殺さないでいられる」と選択できるほど人間は賢い動物ではないのだ。なんとなくです。主人公だからって聖人君子ではないし、また、主人公の行動が作者の理想や思想と同じと言うわけでもないのだ。
 そんななんとなく平和と自分を愛して生きている人間が戦争とか他の国とかに放り込まれた場合、どうなるのか?どんな風に矛盾と向き合っていくのか?


 機動戦士ガンダムシリーズの軍のトップと言うと、ギレン・ザビジャミトフ・ハイマンハマーン・カーン、マイッツァー・ロナ、ムッターマ・ズガンなど、厳めしい人物を想像しがちだ。富野監督以外のガンダムシリーズの作り手も「軍人は偉そうに強そうに描くものだ」という習い性で人物像系をしている節がある。しかし、グシオンはそうではない。初登場からたったの5分で彼は視聴者に親しみの持てるヒロインの良き父であるとアピールする。

 ガンダムシリーズのリベラル派のエゥーゴのように軍服のジャケットをカジュアルに脱いでタートルネックで着こなす。





 G-セルフのトリッキーバックパックの取り付け中に作業員が転落事故を起こすシーンがギャグとしてもメカニックや練度の見せ方としても印象的だ。それ以上に、転落した作業員に「君、大丈夫か?」と普通に心配するグシオン・スルガンの人間味を描くのがこの事故を作り手が引き起こした動機であろう。
 作業員の転落事故の直後、今度はゲッツのジャハナムがマスク部隊に押されて落下してきて、ベルリは下敷きになりかけたラライヤをG-セルフで掬い上げてグシオンに「ラライヤを頼みます」と託す。

 作業員の転落事故は本筋のストーリーから行くと完全に関係ないし、一見すると何でこの描写が必要だったのか視聴者には分かりにくいのだが。
 ベルリがラライヤを預けてもいいと思えるやさしさをグシオンが持っていると描写して、その後にラライヤを隣において輸送機の中でグシオンに人間味のある会話をさせるために、転落事故をグシオンが目撃する場面は必要なのです。作劇は作為の塊と言えばそうなのだけども、視聴者はそういう段取りを解析する前に「なんとなくいい人そう」という印象を持てばそれでいい。


(しかし、グシオンが善人らしさをアピールしているのに、補給されたG-セルフ専用特注ライフルを雑に投げてよこすアイーダさんな…。Zガンダム初登場とか、富野ガンダムはたまに強化武器の登場シーンを意図的に雑にすることがある。∀ガンダムの武器倉庫も速攻壊れたし)


 兵士に「飛びましたよ」と言われて、グシオンが「トリッキーパックだからな」とすごく普通のことのように言う。トリッキーパックはそれまでのガンダムでは珍しい電子戦特化型装備なのだが。(まあ、ザクマインレイヤーとかアイザックとかあるんだけども)普通っぽく言うことでグシオンの普通のおじさんっぽさをアピールしつつ、絶対に飛ぶ形じゃないトリッキーパックが飛ぶことを強引に説得させてきている。


 グシオンはラライヤ・マンディについてどれだけの報告を受けているのか知らないが、知的障害のあるラライヤを鬱陶しがったりせず「そこで落ち着いていられるかな?ラライヤちゃん」と輸送機の操縦席の後ろに置いてやる。軍のトップとして偉ぶったり周囲から距離を置くのではなく、割と普通に障碍者の女の子に優しくできるおじさん。なかなか初登場シーンとしては好印象。


 グシオンが「技術屋の世界では常識なんだよ」とアイーダに言ったのは何が常識なのか謎だったのだが、どうやらG-アルケインの飛行能力についてだと思う。


 なので、アイーダG-アルケインが8話にして初めてサブフライトシステム無しに単独飛行をするのだが、どうやらアイーダがグシオンに「G-アルケインで海に落ちたのか?」と言われて「腰の羽で飛べるのに。常識なんだよ」と教えられて、「親父の前で見栄を張りたい」「お父様に飛行能力を知らなかったと思われたくない」とアイーダが張り切り過ぎたようだ。ここら辺の描写は娘さんを持ってる富野監督らしさなのかもしれないんだけど、アイーダがなんでいきなり飛び始めたのか分からない視聴者には唐突に見える。(G-アルケインの飛行機能が常識だと明言するシーンはカットされてるし)
(Gレコの完結後のイベントで公開されたアイーダさんへの視聴者からの「なんでG-アルケインを変形させなかったんですか?」という質問にアイーダさんは「私の美意識に合わないからです(キッパリ)」と言っていたが、8話のこの飛行機能の使い方を見るに「素で変形のことを知らなかった」んだろうな…)




 G-アルケインを飛ばそうとしてG-セルフを山の木に激突させて、ベルリが怒る。G-セルフに押しのけられて、


G-アルケインは何となくグシオンの乗っている輸送機の上に載って、兵士は「援護についてくれます」と言うのだが、グシオンは「うむ」とだけ答える。グシオンから見ると、急に飛んだり戻ったりするアルケインはきちんと援護の作戦をしているのではなく、娘が勝手に動き回っているとしか見えないのだろう。


 G-アルケインはこの時点でG-セルフに次ぐ高性能機でアイーダさんはすごい美人ヒロインなのに、なんでこんなにテキトーな動きなんだろう!もっとかっこよく描写してもいいのに!やっぱり娘持ちの父親から見た心配する視点に成っちゃうのかなー。富野作品、意外とヒロインキャラと女戦士キャラは分けて描写されてるのかもしれない。アイーダさんをヒロインにしようとすると、有能な女戦士としては描けないという…?うーん。ブレンパワードの宇都宮比瑪ちゃんは間違いなくエースだったんだけど、あれは戦士と言うより動物使いだからなあ。
 なんか、ザブングルのエルチとかZのフォウとかもヒロインを女戦士にするときに洗脳でオルタ化しちゃうところあるよね。
 セイラさんは赤いあいつの妹だから異常者。ザンボット3の神北恵子も地味に洗脳されてるんだよなあ…。
 ダンバインの女性たちも結構入り組んでたあれだし、富野ヒロイン論はとても深い。



 ただ、主人公の相手役のヒロインではない女戦士のミック・ジャックが戦場でクリムと連係プレーをしたら、この8話の後半でカップリングしてるので、女戦士は女として魅力的ではない、と言うわけでもない。
(主人公とは結ばれないんだけど。エルガイムのファンネリア・アムとかも。ここら辺は永野護のFSSとはヒロインとの距離感が違うんだよなあー)


 ていうか、ブレンパワードのナンガとコモドとか、富野アニメは戦場で合コンするところあるよね。
機動戦士ガンダム小説版とか、戦場で興奮したらノリでフリーセックスする感じはある)





 戦場で興奮してカップルが成立したりグライダーに対して暴走するアイーダ達、若者が戦っているが、冷静に「風船じゃ無理だろ」「迎撃の必要はない」と言うグシオン総監は若者とおじさんの感情の温度差がある。部下から娘の悪口を聞いても流せる度量がある。
 (兵士が「突貫娘ですからねえ」という悪口をグシオンにうっかり言ってしまって「勇敢な姫様だと、”クリム大尉”が言っています」って責任を転嫁するのが、クリムの海賊部隊でのポジションをさりげなく表していて楽しい)
 また、「ベルベルベール」と言うラライヤに「ベルリ・ゼナム君がいるか」と答えて、「アイーダの暴走をベルリが止めてくれる」と、ラライヤの言いたいことを理解してくれるグシオンは賢い大人でもある。

  • マスクとベルリの拮抗 マスクの怒り

 富野アニメの映像の原則においては画面右上が最強として演出されるらしい。


 画面右上に行ったトリッキーパックのミサイル発射は画面の外で、

 エルフ・ブルックが画面右上に行けるのはトリッキーパックに押しのけられた時、など、双方決め手を欠く。
 トリッキーパックは技術的には高度だけど、ベルリは慣れてないし、画面右上に立ってもバックパックがライフルと干渉して邪魔になって、なかなかマスクに圧勝できない。技術的なメカの見せ方を通じて、ベルリとマスクの決着がラストまでなかなかつかないめんどくさい関係を暗示してはいる。ただ、まだベルリはこの時点でマスクのことを認識していないし、マスクもG-セルフパイロットがベルリと知っているとか明言していない。(デレンセンも知らなかったことをマスクが知っているとは思えない)
 なので、今回の会戦はそれほど心理的には強くないけど、ラストまでの伏線ではある。






 なので、アイーダとベルリはむしろキャピタル・タワーから出てきたアンノウン(実際にはウィルミット・ゼナムの乗ったグライダー)の方を脅威として考える。



 で、G-アルケインG-セルフが上空のグライダーの方に行くと、マスクは「ふざけているのか!」と怒る。マスクの「ふざけているのか!」は印象的だ。

↑5話のふざけているのか。
 5話ではクリムのモンテーロが武器を持っていないように見えたエルフ・ブルックを侮って近づいてきたときにマスクは「ふざけているのか」と怒った。
 ここでマスクの性格描写なのだが、マスクは「勝ちたい」とか「得をしたい」とか「戦場で敵に見逃してもらって助かりたい」というより、「畏れられたい」という気持ちが強い。戦う理由もクンタラとして侮られてきたコンプレックスの裏返しで、褒められたくてたまらんから。(褒められたいのはベルリと同じだが、やり方が違う)なので、マスクは戦場で敵が自分を侮ったり自分から距離を取ったら、攻撃されなくて安心、とは思わない。むしろ、「もっと俺とちゃんと戦え!」「俺をもっと怖がれ!」「俺を尊敬しろ!」と敵にも求めている。こういう意欲は普通に勝つことよりも充たされにくい承認欲求なので、マスクの生き方は面倒くさいのだ。

 なので、マスクは風船のような武装を持っていない無人の戦意の無いものが立ちふさがると非常に混乱する。ダミー風船を全部破壊する必要はないのだが、執拗にビームで全部破壊する所にマスクの戦い方の癖がある。





 マスクはやられたアーボカスは目にも留めないし、





 落下した戦闘しかできないグリモアを画面外上からの掃射で一瞬で撃破しても全く嬉しくない。勝つ上に、勝った相手に尊敬され周囲に畏れられたいという欲求があるので、雑魚を即死させても嬉しくないのだ。
 でも、戦意の無いように見える相手には「ふざけているのか!」とマジギレするし、無人のダミー風船には驚愕して必要以上に破壊する。マスクは感情で戦っているし、やっぱりなんだかんだ言って軍人として慣れてないし学生なんだよなあ。
 弱い味方や死んだ敵には興味がない。
 逆襲のシャアとかもそうなんだけど、結局マスクの「ちゃんとライバルに戦って俺に負けた上で俺を尊敬してほしい」というめんどくさい願望がすれ違い宇宙しちゃうのがGレコの裏の本筋としてはある。ホモじゃん。キンプリのプリズムショーバトルじゃん。でも、なんで腐女子はあんまり盛り上がってないんだろうね?やっぱり彼女がいるからか???キンプリのコウジくんにも彼女は居る。
 ダンバインのショウとバーン、逆襲のシャアもそうなんだけど、達観して世界を見ようとしてる主人公に「世界よりも俺にかまってくれよ。そして俺を尊敬しろ」って絡んでくるホモという体育会系のマウンティングみたいな関係図式が富野作品にはある。
 上述でアイーダの暴走を富野監督は娘を見守る父親の視点では?と書いたが、ベルリとマスクの戦いはマウンティングを取りたがる男子学生の争いを見るおじさんの視点があるな。富野監督も絵描きや役者などのマウンティングを取り合うアニメ業界で生きてきた爺なので、後輩のアニメーターを見る感じでマスクとベルリを描いてるのかもしれない。でも富野監督も未だに宮崎監督や庵野監督や新海監督にマウンティングをしかけたり吠えたりしている。こういう体育会系みたいな男の子の承認欲求は富野アニメには有る。オタク向けだけど。なにしろ初代ガンダムのスターチルドレンが「強い男と称えられたい」っていう奴だし。ロボットアニメはオタク向けコンテンツだけど、富野作品は微妙にオラついたところがある。


 「父と母とマスクと」なので、今回は7話からのマスク部隊との戦いを通じてマスクのことも掘り下げられている。マスクは学生の身分のルインから一気に大尉になったし専用機体も与えられているので一見、もともと強い軍人かと思ってしまったが、戦場で冷静に勝つことよりも相手に畏れられたいという感情が先に出たり、風船に過剰に反応するところなどを見るに、やはり戦い慣れていない学生上がりと言うことのようだ。マスクは最終回まで見ると「ベルリが海賊に行かなければベルリがマスクのようにしまっていたかもしれない人物」の可能性、ベルリの陰のようなところがある。だからラストでライバルになったわけだが。Gレコはベルリの成長と冒険がメインの番組だが、マスクもこの5、7、8話の戦い慣れていない時点から最終回まで見ると戦士としても男としても成長していくのがさりげなく描かれているのだ。
 また、マスクは実際の戦果よりも「相手に自分を畏れさせたい」「戦場でふざけないで自分の相手をしてほしい」という感情が先に来ているし、「クンタラの地位を向上させる!」というファンタジーな動機で戦争に突入している面がある。
 このような「戦争が起これば出世できる」というファンタジーファーストガンダムの1話でも描かれたが、現実のネトウヨや「理想は戦争」と言う人にもある。異世界転生系ファンタジーは富野監督もバイストン・ウェル系で書いているのだが。自衛隊憲法9条で縛られない異世界に行ったら無双できるのに!という願望、リーンの翼で描かれた在日朝鮮人や米軍に対する日本人の鬱屈した感情、現実では複雑に他者と利害関係が入り組んでいるが日本軍が本気を出したら皇軍が勝利して世界に認められるはず!と言う幻想がある。現実の戦争の火種も割とそういうファンタジーっぽい感情に根差したところがあるのだが、マスクはそれに対する批評でもある。しかし、マスクはマスクなりに(テキストの戦争の批評の道具としてだけでなく)彼自身の人生を頑張って歩いているのだが…。







 ただ、今回の戦闘はトリッキーパックの異常な攪乱戦法でエルフ・ブルックはシステムダウンさせられて殴り飛ばされた。この時のベルリは敵の動きを止めて殴って撃退しただけで、特に敵意や戦意を燃やしてもいない。
 ミック・ジャックには「ピンク太りのG-セルフは1機取り逃したのを見たよ」と言われて、ベルリは「バックパックのミノフスキーフライトのバランスって…」と言い訳をしていたが、マスクを殺さないように戦ったのか、バックパックのバランスが良ければ殺せたと思っているのか、微妙なラインだ。ベルリは軍人ではないので積極的に敵を殺す動機もないが、殺さないようにできるほどの経験もない。事実、1機以上はエルフ・ブルック量産型のコックピットにビームライフルをさりげなく当てているし。
 とりあえず、マスクのエルフ・ブルックとの今回の戦闘はこのパンチで終わり。マスクはガランデンに逃げ帰る。
 映像の原則的には、G-セルフのパンチがカーヒルとデレンセンの殺害と同じく左側から行われているのも要点ではある。
 ベルリが不殺を自覚的にするようになったのはいつなのか、と言うのも今回考えていきたいところだ。序盤のベルリは反射的に正当防衛のように殺してしまっているが、そもそも武器を持ったMSに乗って戦場に出た時点でそれを覚悟してないのは甘えかもしれない。しかし、ベルリはキャピタル・ガード候補生なのでベルリにとってMSは兵器と言うよりは点検用機器なのかもしれないのだ。戦争で武器を使ったら殺し合いになる、と言うことを感覚として理解できているか、スコード教で平和が続いたらしいGレコの世界では、まず戦場の感覚を理解している人の方が少ないかもしれない。
 主人公のベルリも素人だが、Gレコにはまともな軍人がいない。好人物だったデレンセン大尉も戦争に慣れる前に頭でっかちな作戦で死んでしまったし、カーヒル大尉もキャピタル・タワー占拠作戦立案とアイーダ救出ではしゃいで死んでしまった。マスクも強化された感情で暴走気味の学生上がり。
 クリム・ニックが軍人として経験と実力を兼ね備えているようだが、彼は天才で大統領のバカ息子という面の方が大きい…。
 まあ、富野監督はあまり戦争を美化しないので、「まともな職業軍人」は描かないのかもしれない。なぜなら本当にまともな人は戦争なんかしないからです。
 ミック・ジャックバララ・ペオールたちは職業軍人なんだけど、彼女たちはシュラク隊の文脈もある女戦士だし、なんか過去がありそう(語らないけど)。
 一応、脇役でアメリア軍の大陸間戦争のたたき上げの兵士もいるはずなんだけど。ハッパ中尉とかがそうかもしれないが、彼は彼で技術オタクだし。
 月や金星の勢力は逆に知識はあっても実戦経験がほとんどない。Gレコは知識と経験のパラメーターがバラバラだなあ。
 グシオン・スルガン総監とドニエル・トス艦長は数少ない経験のある軍人だが、あまりイニシアチブをとっているようにも見えないのは、これがベルリとアイーダの物語だからなのだろうか。
 また、戦い慣れている人が少ないのは、このアニメが1945年以降70年も戦争をしていない日本のアニメだからかもしれない。攻殻機動隊の原作の草薙素子が「死は現実」と言っているが、殺人や戦争を見ていれば現実を受け止められる力があるのかと言うと、疑問ではある。キャピタル・ガードスコード教自衛隊憲法9条のメタファーだと思うが。しかし、憲法9条は理想主義だが、かといって日本が軍備を持てば中国にもアメリカにも勝利できると思うのも極端なファンタジーだろう。そして、第二次世界大戦では日本軍はファンタジーと現実をうまく組み合わせられずに負けたわけだが。しかし、現在のイスラムアメリカの戦争や、各地の領土問題を見るに、日本以外の戦争をしている国もどこか幻想のイデオロギーで戦争をしているようにも見える。
 なぜ、人はフェイクニュースオルタナファクトを信じてファンタジーで行動するのか?それは人の脳の認識能力が限られているからなのだろう。
 どの国でも大衆の世論の後押しで戦争をする。多くの大衆は自分で戦うことはしないし戦場を見ていないが、自分の日常を守るために軍人に任務を強いる。Gレコのファンタジー(幻想)(想像)の部分はそういう戦争にまつわる現実に対する批評かもしれないのだ。

  • 姉と母とベルリと




 おそらくグシオンの前で良い格好を見せたかったというすごいアホな理由でG-アルケインを暴走させて大気圏上層部まで上昇させてしまったアイーダさん。

 ウィルミット・ゼナム長官が乗っている大気圏グライダーは戦力がないのに、混乱しているアイーダはそれを「アンノウンも私の下に滑り込む」と恐れて敵意を抱いてしまう。これも幻想で敵を作っている行動。中途半端に位置情報だけわかるレーダーだと逆に恐怖心を煽ってしまう。まあ、G-アルケインのレーダーやカメラやコンピューターはグライダーだと観測できていても、アイーダさんが興奮して情報を読み取れてなくて敵だと一方的に思い込んだだけかもしれない。機械が進歩しても情報を読み取る人のリテラシーや感情を処理できなければ事故は起こるという批評性がある。


 アイーダを追って上昇したベルリは、G-セルフでレーダーを見てアンノウンが大気圏グライダーだと分かるが、ベルリにレーダーを読む能力があるのか、単にキャピタル・タワーの大気圏グライダーのことを知っていただけなのか。一見、グライダーだと看破したベルリはアイーダよりも現実を見る能力があるように見えるのだが…。


 無線でそのグライダーから母親の声を聴かされると、ベルリは恐れおののいてコックピットの中で後ずさってしまう。6話でデレンセン教官を殺害した時のベルリはコックピットの中で泣いて前のめりになっていたが、今回はスピーカーから飛びのいてしまっている。彼の驚愕がものすごいと分かる。
 母とも懇意にしている教官を殺した時点で、ベルリは母にも顔向けできないしキャピタル・テリトリィに戻りにくいから、なんとなく惰性で海賊船に居た、と言う感じだと思う。
 ベルリは無意識に母のことを考えないようにしていたのではないかと思うのだが、そんな彼にとっては戦場で母の声を聴くのは想像もしていなかったことだし、また教官を殺しているのでとても申し訳ないし恐ろしいのだろう。7、8話は教官を殺したベルリのリハビリとして位置づけられるのだが。教官を殺したベルリにとって母は一番合いたくない人だったのだろう。それくらい体全体で恐れおののいている。



 で、これはかなり構図として意図的に6話のデレンセン戦の反復で、クリムのモンテーロの代わりにアイーダG-アルケインがグライダーを撃墜しようとしている。G-セルフはデレンセンのエルフ・ブルに対するのと同じ下手側に位置している。
 しかし今回はベルリが相手の機体の中に誰が乗っているのかを6話よりも早く分かっていたし、アイーダはクリムよりものろかったので「撃っちゃダメでしょ!」と止めることができた。
 デレンセン殺しと同じような高度や状況で母の命を救うことができた。これはベルリのリハビリとしてはかなり有効な成功体験だっただろう。同じような状況で人命を救えた。ベルリの価値観の中で母はトップクラスだったが、その人を救えた。教官を殺したベルリは自分では母に顔向けできなかったが、母の方から来てくれた上に教官を殺したことを不問にしてくれた(まあ、母にとってデレンセンが誰に殺されたのかと言うことは特に問題でなかったし、知らなかっただけなんだろうけど(多分海賊の何某に撃墜された、くらいの報告で納得していたのでは))。
 なので、ベルリの傷ついた自信はここでかなり回復したことだろう。ベルリはルールに沿って正しいことをするのが好きな人物なので、アイーダさんが明らかに間違った非武装グライダーへの射撃をしようとして、それをベルリが止めるのはベルリにとって心地いい体験だろう。好きな人の間違いを正すという点でも、うれしい。優位に立った感じがする。

 そういうわけで、ベルリはここで教官殺しの事故を疑似的にやり直して人命を救って自分が正しいと思い直せる、好きな人の間違いを指摘できる、顔向けしにくいと思っていた母親の愛を再確認する、という3点でリハビリがほぼ完了するのです。またおそらく、「守るだけでは勝てないから!」と戦ってしまったベルリが不殺を意識し始めたのは、この時点からなのではないかな。
 視聴者に向けても、



うっかり殺しかけた相手から親しく手を振ってもらったり、殺しそうになった相手にもシナモンのケーキを気にする人間らしさを描写しているので、軽率に殺して人の命の温かさを奪うのはいかがなものか、みたいに示している。
 前述の「戦場での敵味方の認識の現実と、ファンタジー」の話だが、Twitterとかで割とカジュアルに「赤は売国奴」とか「在日朝鮮人は敵だから半島へ帰れ」というヘイトスピーチを目にする。私も人口抑制の観点から戦争は願ってもないことなのでクンパ・ルシータのように愛国ファンタジーによっている馬鹿どもを焚きつけて遊んでいるのだが…。しかし、実際中華料理や韓国焼肉はおいしい。技能実習留学生を使い捨てる日本人は悪いのだが、私もブラック企業で過労死寸前になった。そもそもアニメーション制作は韓国と中国のアニメーターなしではやっていけないので、アニメファンには中国と韓国を嫌う資格がない。朝鮮人も中国人も日本人と同程度には愚かだし、愚かでもない普通の人間なのだろう。
 しかし「在日特権を許すな!」と言うファンタジーで思考している人は相手の人間性の重みを考えるよりも先に在日は敵とか「外国人の利益は自分の損」という「記号」に反応して、相手の人間性の重みをマスキングしているのではないか?
 そんな現代に突き付けられたアニメとしてのGレコは「戦場でまじめに戦っていたら、母が来て強引に日常に戻される」「戦場だから動くものは全て敵だと思ったら、その機体にも誰かの親が乗っていると想像しろ!」と、かなり冷や水を浴びせてきている。しかも大仰に泣かせる場面では無くだ。
 私はガンダムアーケードゲーム戦場の絆のCMの「これは戦争だ!」っていうキャッチコピーが嫌いなんだけど。
 戦場の絆はフルスクリーンでMSシミュレーターとしてのゲームとしては面白いねーって思っているんだけど、ガンダムを愛好している一部の30代以上のサラリーマンの男性は日頃のストレスを「これは戦争だ!だから何をやってもいいんだ!」と仮初めの戦争に仮託してごまかしているように見えて嫌いだ。風俗で相手の女性にも人生があると想像しないで「俺は客だ!客は神様だ!」と欲望を発散しているのと同じじゃん。それをガンダムでやるのはガンダムをちゃんと見てないんじゃないの?って思う。
 アムロは16歳だからいいとして、いい年こいたおっさんが「僕はあの人に勝ちたい!」とか言ってゲームに課金するガンダムロワイヤルのゲームのCMはちょっとサラリーマンの鬱屈が出過ぎていて好きになれない。大人なんだからゲームじゃなくて現実で頑張れよ…。(いや、僕は今年も声優さんに良い衣装を着てほしいのでデレステの大槻唯ちゃんの衣装に課金しましたけど。限定SSR両方持ってますし。いいだろ!オッサンは若いアイドルにかわいいべべを着せたいんだよ!)


 まあ、軽くガンダム動物園をdisったけど、話をGレコ8話に戻すと。アイーダさんが殺してもいい的だと思ったグライダーにベルリの母が乗っていたので、ガンダムで戦争やってるんだ、という言い訳をしても人が人を殺すと、そこに親類縁者がいる、というリアル感がある。
 近年のガンダムでも傭兵だからとか仕事に殉じている軍人だからとかケジメだからとかいろいろと「殺人ショーアニメをするために殺していい理由付け」がなされるのだけど、実際、そんなにはっきりと人を区分けできないよね。どんな奴にも業や因縁は付いて回るよね。という。
 富野監督もフランス革命以降、市民が戦争をするようになって戦場の前線と銃後の区別がつかなくなったと言ってるし。






 と、人種差別とか戦争の現実とかマジメなことを書いたけど、このアイーダさんである。
 「お父様にちゃんとMSを飛ばして戦果を挙げるところを見せたい」というどうしようもない理由で暴走してベルリの母を殺しかけたアイーダさん、嘘ついてテヘペロである。
 く、クズすぎる・・・。しかし、メインヒロインなのだ…。やべえよ・・・。アイーダやべえよ…。
 「本当に人殺しをするところだった…」と戦場の現実に直面したかと思ったら、アイーダさんはテキトーに嘘をついてテヘペロ。うわーーー!なんだこのメンタル構造は。
 アイーダさんは美人だからヒロイン扱いされてもしょうがないんだけど、どうしようもないぞこれは。これ、他のアニメだったらもっと不細工な嫌われてもいいキャラにやらせる役割じゃん。しかし、アイーダさんはここまでやらかして、メインヒロインなのだ。
 これ、どういう目線なのか、ちょっと僕もよく分からない。
 娘を持っている富野監督から見て、「この年頃の娘はこれくらいやる」って感じなのか、女性関係であれこれあった富野さんから見て「女はこれくらいの嘘は平気でつく」って感じなのか、弟のベルリから見て「姉は平気でひどいことをする」ってやつなのか…。(富野監督は3人男兄弟の長男で、2人姉妹の親です)
 しかし、企画段階で放送前からアイーダとベルリが姉弟ということは監督からネタバレされていたので、「姉がひどいことをするのは当たり前」という感じだったが。これ、本当に姉って知らなくて「清純な美少女ヒロインがいきなり酷いことをする」って感じだったらどうなんだろうな…。(富野監督のインタビューとかを知らない一見さんの視聴者さんからは「登場人物の行動が分からない」と言われることが多いらしい…)
 アイーダさんはなんだかんだ言って姉なのでヒロインとして魅力がなくても恋愛関係にならなかったけど…。まあ、セイラ出撃とかカララ・アジバとか暴走系妹は富野作品には居るので、姉が暴走するのも仕方ないのかもしれない…。
 ただ、Gレコは富野監督の作品のテーマとしてアイーダさんを女王にする女王誕生の、女性の復元力を描いた作品にしたかったらしい。
 しかし、これは明らかにクズじゃん。うーん。アイーダさんは本当に女王の器量があるのか、26話までに成長するのか…?ちょっと解釈が難しい…。(僕が男性なので女性の精神的成長を想像しにくいというのもある)
 でも、パパの言うことを聞かないけどパパの前でがんばるところはプリキュアとしてはかわいいと思う(殺人マシーンに乗ってるけど)。
 富野監督のインタビューを読まずに、アイーダが姉だと知らずにGレコを見た人はたしかに「ヒロインに見える美人が主人公の母を殺しかけて、全く反省をせずに嘘をつく」という超展開には面食らうと思う。僕もびっくりした。





 インクエッジ某のことはさておき、「ヒロインが悪いことはしないだろう…」というのは大体の人が予想することだしアニメの定型の一つだと思うけど、Gレコは「主人公は恩師を流れで殺すし、アイーダはパパにいいところを見せようとして興奮してノリで主人公の母を殺そうとする」「人殺しをしただけで全否定しなくていいんじゃないの?」「殺したり殺されたりするのが人生だ」みたいに善悪の彼岸から描かれてる。むしろ、悪いことをしてしまった後にどう立ち直るか、みたいな問題意識もあるんじゃないかなあ。


  • 会食 エスタブリッシュな政治

 ともかく、ビクエスト島の基地にG-セルフ以下MS隊とメガファウナが戻る。グシオン・スルガン総監とウィルミット・ゼナム長官もそこで会見する。

 ドニエル艦長からもアイーダは大人の言うことを聞かない年頃と言われるが

部下は部下でウィルミット長官にナチュラルに銃を向ける。
 アイーダは以前4話でドニエル艦長に「(ベルリを)海賊の法で裁きましょう!」と言っていたが、アイーダさんはヒロイン面して、海賊の法による処刑を見ている経験があるのかもしれない…。テロリストじゃん…。まあ、燃料強奪に何回か参加したみたいだし、武闘派のカーヒルと恋愛するような娘だしなあ…。
 ドニエル艦長も難しい姫様と部下を率いて大変だ。


 で、ここからBパート後半の17分目から残り5分で、マスク部隊との激闘にも匹敵する政治劇がぶっこまれるので、Gレコは濃い。戦闘の後の単なる反省会に見えて、政治家の戦いの本領はテーブルで。


 ヤバい。キャピタル・アーミィーのマスク部隊とメガファウナの海賊を含むアメリア軍がさっきまでガンガン殺し合いをしまくっていたのに、そのトップが手を取り合って旧交を温めるのは本当にヤバい。


 ガンダムはメカ戦闘での強さ比べという面もあるが、さっきまで一方的にアイーダさんに殺されかけたウィル長官が申し訳ないとは申しませんって言ってアイーダさんに謝らせるとか、戦闘シーンと政治シーンで逆転しててびっくりする。
 戦って強い方を勝者とするって言う戦争のルールもあるけど、談話で地位協定を云々する政争のルールもあって、それが同じ8話の中で混在しているのはマジでヤバい。しかも、グシオン総監の初登場話である。顔見世から一気にグシオンの本領に入ってきた。グシオンは武人と言うよりは防衛大臣としての政治家なのだろう…。
 あと、アイーダさんも一応戦闘ロボットから降りたら殺しかけた相手に(殺しかけたことではなくキャピタル・タワーで勝手なことをしたことを)謝れるので、最低限の上流階級の礼儀は分かっているようだ。


 エスタブリッシュと大衆の違いというのがトランプとヒラリーのアメリカ大統領選挙で話題になった。

エスタブリッシュメント(英語: Establishment)とは、「社会的に確立した体制・制度」やそれを代表する「支配階級」を言う。政治学では、政治を「エスタブリッシュメント間の抗争」と捉える。


 で、Gレコの7話では被差別者である女性のウィルミット・ゼナム、知的障碍者ラライヤ・マンディクンタラのマスク部隊を描いたが、8話のこの終盤では一転して「支配者」エスタブリッシュメントの人々を描いている。


(アメリカ)トランプ氏の入国一時制限措置について、全米の世論調査では賛成が上回っている。これだけ全世界のメディアや知識層が反対しているにもかかわらず。これがトランプ現象の本質。既存の政治家や知識層は国民が真に求めていることへの探求が足りなかった。エスタブリッシュと国民のかい離。

 と、橋下徹は言っている。




 橋下徹氏は引退すると表明したのだから引退しておればいいと思うだが。
 エスタブリッシュと国民が対立している、と言われることが多い。
 しかし、エスタブリッシュはそんなに人非人なのだろうか?
 この問題は難しいのだが、国際社会において政治家・官僚・貴族・指導者層の人々はサミットやホットラインで個人的にもグループとしても話し合う。そういう人々は自国の資源、モノ、カネ、そしてヒト(労働力としてもテロリストやその被害者としても)を含む経済資源を交流させて彼らの仕事をこなす。エスタブリッシュメントの人々にとって重要視されるのは彼らのキャリアプランや出世であり、仕事の効率性である。効率的に仕事をこなすためにエスタブリッシュメント階級の人々は彼ら同士の関係性の構築に努める。これはビジネスマンとも同じなのだが。資本家や商社マン、金融エージェントは彼らの国や会社の資本資源労働力をディールの道具や潤滑剤として取引する。その際に当然、利害関係や貸し借りや恩讐が発生するわけだが、その取引材料のコインのように資材として国民や軍備や法律や条約が取り交わされる。これは労働者階級や一般大衆から見ると不当に自身の財産や肉体を支配階級の都合で動かされるように見える。しかし、組織が大きくなり、国家間の関係がこの惑星を覆うレベルになり、個々人の生涯年収を数百倍も上回る額の金銭でインフラストラクチャーや軍事なり事業なりを展開するレベルの仕事をこなしているエスタブリッシュメントから見ると、大衆一個人の都合などは近似の過程で無視されて当然なのだ。
 こう書くとエスタブリッシュメントは血も涙もない残酷さで国民を道具にしていると思われるが、これはなにもエスタブリッシュメントに限ったことではない。
 このブログを読んでいる一般大衆が多くの割合を占める君たち、そう君たちも仕事や人間関係をこなしていると思うが、君たちも自分の人生で関わる全ての人を尊重できていると胸を張ってこたえられるかね?例えば飲食業を営んでいる君は全ての顧客、すべての材料調達取引先、すべての従業員、すべてのアルバイトの人生を思いやっているのか?農業をやっている君は自分の作った製品を口にする人の全て、或いは君が製品を作るにあたって農薬や管理で殺した鳥獣なりを顧みているのか?建築現場や工場で働いている君は同じ職場の人の過去や家族関係や家庭環境を知っているのかね?
 私は自分の親がどう云う人生を送ってきたのかも知らない。
 別に私はそれで君たちが悪いとか良い奴だとか言いたいわけではない。要は「人間の脳が認識できる対象としての人は数十億の世界人口に対して、せいぜい数百人が限度であり、それ以上は塊として認識されるしかない」という情報処理能力の限界の事実を述べているだけだ。
 そして、そのような限定された情報認識能力しかない選挙民が自分の矮小な損得で国政を左右して、そんな大衆が数だけ集まった結果、勝ったことにされる。だが、勝てば正しいのか?正しい政策や未来予想を大衆ができるのか?そこまでかしこいのか?選挙や民主主義も、正しさを作るのではなく、便宜上それが正しいということにするシステムに過ぎないのではないか。そして、なぜシステムが必要なのかというと、人は一つ一つの現象を公平に正しく判断したり作り出す能力がほとんどなく、システムに従うのがベターだからだ。


 Gレコの話に戻ると、この場面で描写されているのはウィルミット・ゼナム長官とグシオン・スルガン総監は巨大組織のトップでありながら、その自陣営の末端構成員よりもトップ同士のエスタブリッシュ同士の方が個人的に親しい知人であるということだ。これは言ってみれば当然のことで、学校の教師同士が生徒の全員よりも、職人の親方同士が徒弟たちよりも、八百屋の商売人たちがその客よりも、互いに親しく交流して仕事をしているのと同じことだ。エスタブリッシュメントの人々は扱う金額の大きさや影響力の大きさから支配者だとか言われがちだが、何のことはない、彼らは彼らで目の前の相手と案件をこなしているだけのホモ・サピエンスに過ぎないのだ。そして、彼らの同族意識は自分の組織の下部構成員である国民や労働者よりも、同じような教育レベルや待遇を受けている各国のエスタブリッシュメント同士の方が親密になるのは当然のことだ。
 (機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズでは逆に同じレイヤーの下部構成員グループを家族と称して扱っているが、オルフェンズは家族の外の社会がほとんど描かれていないので、別レイヤー同士の無関心はこちらでも描かれている。ただ、Gレコは自覚的に階級を描いているのに対して、オルフェンズはその時代の社会の描写に筆の力が追い付いていないような…)

 大学の先輩。最も汎用性の高い〈回線〉の一つである。須田にはなんの関係もない案件だが、省庁間の慣習として彼は回ってきた連絡を〈中継〉せざるを得ない。経済産業省の課長補佐である須田と警視庁の理事官である城木は同じ〈レイヤー階層〉に属する。接触には中し分ない。
機龍警察 自爆条項〔完全版〕 (ハヤカワ・ミステリワールド)


 トランプ大統領と争ったヒラリー・クリントン氏やオバマ前大統領もテレビやネットでは争っているように見えているし、彼らの支持者は紛争を起こしているが、エスタブリッシュメント同士の彼らは選挙が公平だとか言う建前の裏では当然段取りを組んで情報交換して仕事をしているだろう。本当に命がけで選挙をしているわけがない。過去の封建国家では下部構成員の信頼を得るために負けた指導者の親類縁者は皆殺しになったらしいが、先進国では恐らくそういうことはない。なので、エスタブリッシュメント同士は落ち着いて仕事をすることができる。(もちろん、一般社会でも存在する程度には暗殺や攻撃やイジメは発生する)
 トランプは金と経済的影響力を持っているエスタブリッシュとして、ヒラリーは政界の人脈を持っているエスタブリッシュとして居たわけだが、どちらもエスタブリッシュである。
 自由主義国家では選挙権のある大衆を有権者と呼ぶらしい。しかし、その有権者は果たして選択の責任を負うに足る知見を持っているのだろうか。トランプ氏は移民に仕事を奪われた労働者の支持を得たわけだが、移民に仕事を奪われる状況を発生させたのは政治家ではなく、移民に仕事を斡旋する中流階級である。地域経済がバランスよく保持されていれば移民だけが地元の人間よりも多く仕事を獲得できるはずはない。ではなぜ移民の人件費が安く労働力として使いやすいのかというと、彼ら移民の生活保護費用が正規国民よりも安いからだろう。ではなぜ移民たちの人命が安いのかというと、それは移民が発生する国が戦争などで荒れたりして人命を維持するためのインフラ費用が安いからなのだが、そういう戦争状態や安全に関わる環境の非対称性が発生するのも結局は国際経済活動の帰結でしかないんじゃないかなあ。
 移民は安い労働力で正規の国民を脅かす、と言うが、移民は移民で正規の国民よりも奴隷状態で働かされたり、戦争で死ぬよりは安い賃金で働く方がマシだと妥協したりしている。どっちもどっちなんじゃないかなあ。結局、この惑星は思ったよりも豊かでないというだけなのかもしれん。まあ、人間が増え過ぎたからなのかもしれんが。
 移民や海外に利益を奪われて怒る一般国民の声をエスタブリッシュが知らなかったから選挙で負けたとか言われるのだが、では、一般国民の諸君はエスタブリッシュメントの人々や、逆に移民の一人一人を思いやったり知ろうとしたのか?
 自分はエスタブリッシュメントに無条件に守られるべき一般大衆であり、無知でも権利を主張して当然と思っているのだろうか。人間が自然状態では無知であり、観測範囲が狭いのは単なる現象だ。だから一般大衆と言われる人々の知的レベルや情報量が少なくなりがちなのは当然なのだが。しかし、選挙権を分け与えらえているのならば、正しい選挙や判断を行うに足る義務や責務も当然国民は分け合うべきであったのだ。しかし、現状ではマスコミの報道が偏っているから、自分たちは無知でも仕方がないと開き直る人が多い。それは単に自分の努力の足りなさを正当化しているだけである。もちろん、人間の情報処理能力は現実に発生する情報量そのものに比べると非常に少なく、現実を認知できる人というのはほぼ皆無に等しい。だから現状を把握できないという現象自体を罪には問えないのだが、現状を把握できない自分の情報収集能力やそれに割く余力の少なさをマスコミやエスタブリッシュメントの責任に転嫁するのは狡猾であろう。(もちろん、リーンの翼にあったように、富野由悠季の作品では大衆が狡猾であるということは前提条件なのだが)
「真に大事なのは、どの党が政府を統制するかではなく、政府が国民に統制されるかどうかだ。2017年1月20日は、国民が再びこの国の統治者になった日として記憶されるだろう」とトランプ大統領は言うが、では国民というものに果たして主体性や法人格や統一性はあるのか?すべての3億人のアメリカ国民が並列的に情報と価値観と責任を共有できているかというと、そんなことはないと思うなあ。せいぜい自分の生活や仕事で関わる数百数千人との利害関係とテレビと新聞しか情報処理できないんじゃないかなあ。
 その程度の人間でしかない人びとの願望が「国民が真に望むもの」で「国が真に目指すべきもの」なのかは分からない。民主主義は最大公約数による責任の分散化だと思うし、それは手続きとしては優れていると思うが、その段取りの結果が真実と言えるのかどうか…。


 まあ、より良い政治や統治の手法やシステムの構築についてはそれを扱っている専門職人、つまりそれがエスタブリッシュメントなのだが、そのような労働状況に置かれている人々に任せて、僕はアニメやGレコを楽しむことに体力を使う。
 しかし、一般大衆のボトムアップからの情報収集組織や結社結党の少なさはシステム的には欠陥だとは思うのだが。まあいい。(横山ノック橋下徹のようなテレビタレントを大衆の代弁者でありボトムアップだと思っている人間は情報の受け手であっても発信者ではない、という程度の批判にとどめておく)いっぱしの大人なら自分で情報源を抑えておくものだ。それが兵法だ。将として兵を用いる気概もない一兵卒が選挙権を持っていることの方がおかしいと私は思っている。


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 森友学園の国有地売買に関して、その他に国有地を便宜された朝鮮学校朝日新聞NHK、読売も自民党と維新の会と政治と官僚は画面の裏で情報交換しているだろう。幼稚園児に教育勅語を読ませて喜んでいる程度の人間、ゆとり教育を受けたからバカで仕方がないとあきらめている人間、政治に利用された歴史教科書を自分で調べずに信じる人間はその程度だ。(士郎正宗デジタルデバイドについて攻殻機動隊で「デジタル情報にアクセスできない人と同時に、デジタル化されない情報でも分断が発生するだろう」という主旨のことを)


 言っておくが、マスコミが偏っているからと言って、ネットやグーグルが公平ということはないからな。そして、私は私以外の全ての物の敵である。人口削減主義者だし。人間よりも人間が発見する科学的理論の方に価値があると思っている。また、私を取り巻く人も私から金をむしることしか考えていないだろうし、それが当然だと思っている。ここでブログを書いているのは金銭とは関係のないところで価値を生み出すための空しい抵抗なのだが。


 ていうかこれ、何の話だっけ?


 まあ、高度な情報化社会ではむしろノイズに情報を乗せるしかないのだが。

  • 政治も戦闘シーンである

 話が盛大に逸れたが、Gレコはエスタブリッシュメント階級の人々もその階級の中で戦闘しているに過ぎないという点ではMSの兵士と同じ職人である。ということを述べたかったのだが。
「科学技術は大陸間戦争をしているゴンドワンからも拝借はしています」

 で、このグシオン総監が富野監督の映像の原則ではわざとらしいとされる中央正面顔でわざわざ顔に影を入れて夕日をバックに「我々アメリアはタブーを破っていない」と主張するのは、演出的に嘘をついているサインだ。
 嘘は哲学や倫理では悪徳とされるが、戦争自体が暴力であり、それもまた悪徳の組み合わせに過ぎないのであるから、政争もまた言語による闘争に過ぎない。

 法の存在するのは不正義の存在するひとびとの間においてであり、裁判とは「正」と「不正」との判定を意味する。
 (アリストテレス ニコマコス倫理学第5巻第6章)。

 それで、富野監督の映像の原則ではカメラのフレーミングによる位置関係による印象操作を重視しているのだが。
 ここでシーンの頭に夕日をバックに正面中央で登場するグシオンがこの後の会話で「天秤にかけられる」という暗示なのだが。


 この大胆なカメラのパンでカット毎には検事のウィルミットと弁護士のクリムが中であり「正」に見えるが連続としては、「中」に被告人のグシオンと傍聴人のベルリがいるように見える。また、美女や絵画の交互な配置も、各勢力の華やかな応援のメタファーとして配されている。


「ニックスペースがメガファウナになったのなら問題になります」とベルリが新しい証拠を出すのは名作映画「十二人の怒れる男」のヘンリー・フォンダみたいなアレで、映画らしい。というか、ガンダムなのにメカ戦闘が終わった後の反省会ムードの後半に「十二人の怒れる男」クラスのドラマ性をぶち込んでくるのがGレコの密度の恐ろしい所なのだが。また、ここでベルリが政治的な発言しているが、給仕がその内容に無反応なのも「エスタブリッシュメント階級」と労働者階級のレイヤー階層の差異を表しているのだが。
 また、ベルリがメガファウナの正体に気づいていたのに今までノレドにも言っていなくて、母が来たことで初めて言うのも、彼がエスタブリッシュメント階級のレイヤー階層を自認していて、「ノレドやラライヤに言う必要はない」と思っている描写でもある。こいつやべえな。主人公だけど、あんまり優しさとかでは行動していなくて、「政治的正しさの他者からの評価」で動いている。エリート公務員志望なんだなあ…。



 そこでウソがばれたグシオンは立つ角度が変わっている。リミテッドアニメーションと映画の技法の組み合わせとして非常にわかりやすい。
 グシオンが嘘をついているとか、その嘘がどの程度の害悪なのかは台詞では説明されないが、カメラワークや立ち位置で暗示される。これは舞台劇にも共通することで、富野監督がよく観劇していることからも配慮すべきだ。

 論点をずらして開き直るグシオンは再び向き直るのだが。

 ここでクリム・ニックミック・ジャックが退場するのももちろん意味があって、軍総監のグシオンが嘘をついていたり機密情報を開示する場に、クリムがいないことで、あとから「私は聞いていない」という政治的態度を取れるからなのだが。(メンテナンスや整備品のことは方便だ)クリムが政治的に場を外すことで「聞き流してもいい嘘」と「聞いてはいけない機密開示」の情報としての質の重さの差異が視聴者にそれとなく暗示されるのだが。それをうやむやにするのがミック・ジャックのベルリへの悪口。


 しかし、ベルリはエスタブリッシュメント階級のレイヤーに所属することを希望しているので、戦士階級のミック・ジャックの悪口に反応しない。逆に、「失礼でしょ!」と怒るのは階級の低いノレド・ナグなのである。Gレコの階級の雰囲気はこういう細かい反応で丁寧に描写されている。クンタラとかヒューマンデブリとかの身分制度の分かりやすい決め事だけでなく、こういう立ち居振る舞いに人間関係が出てくる。
 また、ここでノレドがミック・ジャックへ「なにさ、あいつ!」と怒るのは、戦士階級でありながらエスタブリッシュメント階級を兼任しているクリム・ニックとミックが情を通じているのを女性としてのノレドに感じられたからなのだろう。そして、ベルリが「おっぱい吸わせてもらう」という性的なワードに無反応であり、ノレドとの恋愛にも無関心でノレドが欲求不満で、欲求を満足しに行くカップルに嫉妬している、ということの暗示なのだ。若いベルリはクリムのように戦いが終わった後、さっぱりと政争の場を立ち去ってセックスするようなクリムのような度量を持っていない青少年なのだ。しかし、ベルリは戦って女を抱くことよりも、母の前でエスタブリッシュメントぶって「正しい人アピール」をすることの方に関心がある人物なのだ。クリムは弁論による政治的な正しさの決定よりも戦場での力による正義の決し方に興味がある人物でもある。Gレコでは政治と戦闘が同次元の別の性質のもの、として描かれている。(鉄血のオルフェンズでは話数で分離しているのだが)
 一言二言の悪口の応酬で、これくらいの人間関係の性質と立場を描いてしまうスピード感がGレコにはある。もう、これは詰め込み過ぎだしテレビアニメとしては視聴者が脱落するのは仕方がないんだけど、もう、富野監督はGレコの企画に7年もかけて彼の脳内ではすごくきちんと描写されていることになっているくらい妄想が詰まっているので、そこは許してあげてほしい。(全盛期の80年代ですら小説版で補完しないと訳が分からないアニメを作っていたところがあるので、もう、そういう人だから仕方がないので許してほしいとしか)





 うつむいておののくウィルミット・ゼナム長官はカシーバ・ミコシを輸送船ではなく「宇宙の鼓動そのもの」と、ふんわりと神聖視して、観測しようと考えていなかった。これは結局のところ、地球での運行長官というエスタブリッシュメントなウィルミットもさらに上のレイヤー階層のことは考えていなかった専門職員に過ぎない、ということ。階級闘争的な物語ではエスタブリッシュメント階級は倒すべき巨悪で世界の隠された陰謀を操っている人々としてオカルティックナインのような冒険アニメでも描かれることが多いが、Gレコでは「エスタブリッシュメント階級も軍人も職人の一種に過ぎない」という相対化が行われている。これは「ジーク・ジオン!」って喜んでいるガンダムファンに考えてほしい所。


 また、ここでアイーダの立ち位置が変わることで、映像の雰囲気として、ウィルミットが押し切られたようにも見える。また、カシーバ・ミコシの写真という新証拠の問答に、ベルリが映っていないことも注目ポイントだ。
 議論に加わらないベルリは、主人公として無関心すぎないか?とも思えるのだが、ベルリは観測者としてふるまう。
 カシーバ・ミコシの正体について知らされたのはスコード教の信者としてはウィル長官のように驚いても当然だが、ベルリはニックスペースの正体を知ってもその場で言わない人物なので、まずは様子見。グシオンの嘘を見抜いたので、グシオンが出した証拠にもすぐには反応しない。




 おののく母に加担するでもなく、観察している。新訳Zガンダムのクワトロとハマーンを見るカミーユの新規シーンにあるように、近年の富野作品の主人公は観察から入ることが重視される。(結局カミーユはクワトロの方に歩み寄ってしまうのだが)直感のエスパーから「誤解無く分かる人」に富野監督のニュータイプ観が変化したのだろう。

 んで、ここでカメラの位置が場外に飛んで、見下ろして、混乱して弱い立場になった母にベルリが「母さん、落ち着いて」と来る。
 6話のラストの殺人で自分の正義に疑問を抱いたベルリにとって、弱った母を助けることで自分の正義を自己暗示するのは、自己認識が「正しい人」に戻るリハビリとして重要なのだ。しかし、それはあくまで自己認識としてのリハビリであって、事実ではない。状況としてベルリはさらなる戦闘状態に突っ込むことになる。


 混乱して退場するウィルミットに代わって、ベルリがグシオンから「エフラグの一機くらいは提供しよう」と押し切られて、「あっ、ありがとうございます」と言わされてしまう!
 この弁論シーンの最初はグシオンが天秤にかけられる人として登場して嘘をついて、ベルリに看破されるのだが。最初はベルリが勝っていたのだが、ベルリは母の前で正しい人ぶりたいと思って母に加担する欲を出したので、グシオンに逆転されて言い負かされてしまう。グシオンは国家機密レベルの嘘をついたのにベルリくらいの少年は言い負かす。ベルリはグシオンの嘘を言い当てたのに、母が揺さぶられたので雰囲気でグシオンにお礼を言わされて負けた感じになる。
 また、ここでグシオンが主人公を丸め込むことの正当性を視聴者にも刷り込むために、冒頭でグシオンがいい人アピールをしていたという構成力!
 戦場で中立的で良い人に見えたグシオンだが、彼の本領である弁論の場では戦って主人公に勝つ。そしてベルリはさらに戦闘に巻き込まれる。
 こういう風に複数のシーンの組み合わせと、同じシーンでの複数の意味の含有によってGレコは非常に密度の濃い情報で作劇していて、うならされる。
 そして、ここで無常にカメラはこの場を去ってベルリの負けが確定する。


 近年のSFアニメーションは設定の説明で物語を動かすところがある。なので、カシーバ・ミコシとか宇宙からの脅威について5話で既にクリムから言及があったのに、それをデレンセンが死んでマスクが戦場に出るまで黙っていたのは、視聴者としては放送当時疑問に思った。
 しかし、エリートやエスタブリッシュメント同士の政治闘争の場では設定や情報の開示は、アニメ作品として視聴者に見せるメタ要素よりも、登場人物同士の殴り合いの道具に使われるのが当然なのでは?と思うと、ベルリがここまでニックスペースのことを黙っていて、アイーダも宇宙の写真をベルリに黙っていたことが、ある程度納得できた。

  • 正直者のマスク



 嘘をついていたグシオンと逆の夕日の背景で、背中から登場するマスク。彼の絶叫が本心で、そして彼女の告白も真実なのだ。アメリア人のグシオンやクリムは政争で嘘や方便を使っている嘘つきだが、キャピタルのマスクとマニィは仮面を使っているが、本心で分かり合っている若人!という対比よなあ。



 1分にも満たないマスクとマニィのシーンの背景の夕日の位置がグシオンの背景と逆というだけで、真偽とか、老獪さと若さの対比とか、マスクマンの人物描写になっていて、「映画だなー」と感心する。
 また、前半の戦闘シーンではマスクが感情的に戦っていて、後半ではグシオンが冷静に政治弁舌で戦っているのが対比的に描かれている。それと関わるベルリがどう動いていくのか、前半戦の中盤である。


 グシオンがウィルミットにカシーバ・ミコシの真実の物的証拠を開示したのは政争でニックスペースのタブー破りの嘘を雰囲気で押し切って言い逃れるための流れなのだが。アイーダカシーバ・ミコシを取り巻く政治的な嘘を見ることで、逆にクンパ・ルシータガランデンを調達したというもう一つの政治的な嘘に気づく。



 アイーダポンコツな姫様だけど、意外とこういう所で洞察力、複数の情報を組み合わせて推理する想像力を発揮する。ベルリは自分が教えられ知っていて見たものをすらすら言う優等生だが、想像力に欠けたところがある。
 逆に、アイーダさんはイケメンのカーヒルにコロッとやられてはしゃいで海賊サークルの姫として専用MSに乗ってしまうような軽率さがありながら、突飛な想像力で現状を動かす能動性がある。
 この姉弟の行動力、瞬発力の差と互いの補い合いがGレコの肝かもしれない。
 のだが、アニメーションは如何せん、映像作品なので「見て言う」ベルリの方が「想像して思いつく」アイーダよりも印象的になる。文章で行間を想像させる媒体なら、逆にアイーダの方がベルリよりも能動的に感じられるのかもしれないが…。


 映画化の際にはアイーダさんの女王誕生までの説得力をどうやって演出するのかが一つの要点になるだろうと思うのだが、どうなるんだろうなあ・・・。


 アイーダは「正しい真実を自分の中で見つける」ために「クンパ大佐が怪しい!」と慌ててグシオンに伝えに行く。
 ベルリは「正しい人だと思われたい」ので、「母さん元気出してくださいよ」と孝行息子らしく母をなだめる。二人の育ての親に話しかける8話のラストは対照的だ。

  • まとめ

 エスタブリッシュメントなどの世俗での時事問題でやや論旨を外れてしまったが、ベルリの殺人を含んだ行動原理、階級意識の性格付けの考察としては、ある程度できたと思う。しかしながら7、8話は単なる連続のベルリのリハビリ話として軽く書くつもりが何週間もかかってしまったので、反省だ。
 

ところで、3月12日に富野監督が宝塚で高橋良輔監督と対談するイベントに出席することになったのだが。
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/4000021/4000148.htmlwww.city.takarazuka.hyogo.jp
 参加者には富野監督に質問する機会が与えられるらしい。僕も何か考えるつもりだが、僕よりも面白い質問をする自信のある人は僕にTwitterのDMかコメント欄で教えてください。代理で質問してもいいし、無視してもいい。(メールはメンヘラなのでめったに読みません)(今日はイープラスが何度も残念ながらデレ5thのチケットを用意できませんでしたってメールしてきて切れそうになった)


 どうやらそのイベントまでにベルリの殺人考察を書きあげるのが無理ということが確定してしまいました。うーん。もともとは一昨年のロフトプラスワンで登壇したトミノアニメブロガーナイトで軽く30分ほど話した「ベルリの撃墜に伴うリアクションの変化」の映像プレゼンをブログにまとめるだけのつもりが、時間と思考力を半年も使い過ぎている。
 実はこれのせいでクロスボーンガンダムゴーストの再読ができていないので最終巻を読めていないのだが長谷川裕一先生は颯爽とDUSTを描いていて、やっぱりプロフェッショナルは違うなー。って思う。でも、僕は鬱病だから一日に9時間寝て、3時間は酒を飲んで泣いていて、4時間ソシャゲをしている…。
 本当にすまない。鬱に伴う全身の痛みや眠気が軽い時だけ、突発的に脳の回路がつながって文章が書ける。本当はこんなに疲れる文章執筆はしない方がいいんだけど、僕は実生活では無能なので富野という他人が作った作品に対して解説しゃぶっていることで辛うじて「こんな自分でも生きていてもいい」と自殺を延期するためのタスクをでっちあげている・・。いいのか、こういう生き方で。
しかし、結婚して子育てや労働のために自殺を延期して年金がもらえる年まで肝臓を壊さないでおいて、年金高齢者になってから趣味をやるなんて言う生き方はやりたくない。今、酒の勢いで遊ぶ!これよ!



 続きます。

  • 次回の殺人考察

nuryouguda.hatenablog.com

  • Gレコ感想目次

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富野に訊け!! 〈怒りの赤〉篇