玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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と言う訳で、自殺を現実的な選択肢として考える段階になった。

のだが、死のうと思うとブランパワードの伊佐未勇と妹に似ている超美人・宇都宮比瑪が頭の中で僕に叫ぶのさ。
「頼まれなくても、生きてやる!」
今死んだら、せっかくもうすぐブレンパワードが見られるというのに、死んでも死にきれない。
僕はもう、自分の夢とかやりたい事は何にも無いし、25歳まで童貞なので、女性を愛することも無いし、子供を作らないから、老人になって介護される前に死なないといけないし、その前にニート決定で就職も出来ないので、死なないといけない。
つーか、俺死ぬし。
もう、人生に何の希望も無いですね。
なのに、それなのに!
死のうと思うと、その次の瞬間には富野アニメのことを考えるようになっちまった!
21世紀の到来前後から、オレは鬱病気味になり、一時は「∀ガンダムの映画を見る資格もないんだ・・・」というくらい鬱だったのだが。
「こもるだけではなにができる!」というキングゲイナーを見て、「ひきこもりカッコいい!」と思って2003〜2004の2年間は休学して引きこもった。
そして、京都精華大学の講演会で富の由悠季と話して、オーラが共鳴し、2005年から京都精華大ガンダムのビデオを見るついでに駅弁大学に通えるようになった。
はっきりいって、トミノアニメだけがオレの生きる目的だ。
俺は早く死にたいのに、富野アニメを見ないと、地獄で閻魔にバカにされる気がするので死ねない。
確かに、他のアニメや芝居も見たいのだが、いくら生きても、死ぬ瞬間は必ずあるし、その時点で、絶対見逃す作品はある。いくら見ても、全ては見れない。
だから、いつ死んでも同じなのだ。
だけど、僕はトミノアニメだけは見たいと思うんですよおお。
僕が生きていることで、親や地球環境に迷惑をかけるだけだって言う事は分かるので、一刻も早く死にたいんですけど。
トミノアニメだけは人に迷惑をかけて、人を傷つけたとしても見たい!
こないだ、富野喜幸杉井ギサブロー講演会で、富野に聞いてみた。
鬱病を治す秘訣はありますか?と。

えー、秘訣はありません。
で、秘訣はなくってーあのー。毎日の中で努力をするしかない。と、思います。
で、この場合の努力と言うのは、どういう努力かと言いますと、
「他人」「第三者」で、僕の場合は、あの、奥さんでした。その次に娘二人でした。
つまり、その第三者、その、「他人」がいる、その、他人がいてくれるから、自分が今えーとぉ〜生きられるっていう×××(聞き取れない)で、こういうことです。
他人がいるために、この時のとても激しい「めまい」が少し治まった。
だから、「ああ、今は奥さんに、それから娘に、甘えていいんだな」って言う、そういう心を育てていくって言う事です。
そして、特に目眩的な自覚症状が生まれたときには、えーと、自覚症状でなく目眩が止められません。
で、あくまでも肉体的精神的なものですから、自分の意識を中立(?)に持っていくっていうのは、これはフィクションではないので、気合では止められないわけです。
それで、意識をだんだん下げるのは止められません。
で、実はそういう意識を育てていくためにどうするかというと結局、「他人がいるんだ。他人に縋っていいんだ。他人に甘えていいんだ」ということ。
それから、そういう他人がいる事によって、今自分が生かされているんだから…。
ここが難しい所です。
自分にこもるなって言う事をどう自分に納得させられるかっていうことが「縋りつく」ていう行為なんですけど。
自分の中に在る、自分を見つめる、自分の中に内向していくっていう気分をともかく外すということしか、僕の場合には方法がありませんでした。
ですから、えー。このことを、あくまでもその、観念的に考える、ではなく、ないということでどういうことをするかということで言えば、僕にとっては、ただ、玄関を一歩どうしても無理して出るんです。
一歩出るときに、・・・・・・奥さんの肩につかまってられるっていう肩があるっていうことがとっても嬉しかった、という風に思ったと言う事です。
おそらく、鬱がもっと激しい時には、他人の肩につかまるということでさえ、実は気持ちの悪い物かもしれませんし、それを拒否するのかもしれません。
で、僕の場合にはありがたい事に、そこまで、あのー、重症ではなかったので、奥さんの肩につかまらせてもらって散歩をするということを、一ヶ月続けると気持ちが違ってきたっていうことは間違いなく言えます。
ですから、基本的に自分の気持ち、それから何より自分の体を外に向けて、あの、踏み出していくということだけは、これは、極めて、その、意地、意地を張ってでもやって見せなくちゃいけないことではないかと思っています。
ただこれはあくまでもボクの場合ですから、えー。全部の方に当てはまるハウツーだとは思えません。
が、あのー、自己管理のあり方として言えるのは、自分が、要するに自分がいる事が一番決定的に大事なんだと言う風に思わずに、他人がいるから自分が生かされているんだという風に思うことが僕にとっては一番の薬になった。
で、つけくわえます。作品に関して言えば、その後の作品に関しては、その気分を絶えず、えーっと、投入していくような人物関係を作っていく、そういう人びとの、リアクションをしていくキャラクター。
それから、悪人と言われてる人たちはそう言う他人に対して極めて冷淡である。という風な規定をするようになってきたって言う「自覚症状」が在ります。

ということを言われたのだが。
富野は僕のようなダメなオタクに対して、言葉を選びながらちゃんと目を見て語ってくれた。僕に対して、一人の人間としてちゃんと向き合ってくれた。
つまり、僕にとって、「他人がいるから自分が生かされているんだ」というのは、つまり、「富野がいるから自分が生かされているんだ」ということなんだ。
親とかと話すと、迷惑をかけているなあ、かっこ悪いなあ、自分はダメだなあ、申しわけないから早く死のう。と思うのですが。
富野がいると、富野に恥じない生き方が出来ないにしろ、そういう風になって生きたいと思う。
僕が引きこもりから脱出して、曲がりなりにも復学できたのは、トミノが教授を務める、精華大学でトミーノのアニメを見たいから、意地を張って玄関から一歩踏み出せたからなのであって。決して学歴がほしいからとか、大学で勉強したいからではなく、100%富野のため。
富野アニメを見ていると、アニメばかり見ている場合じゃない、と思うので、仕方なく大学にも通っているだけ。
富野アニメを見るのは僕にとって幸せすぎて、ダメ人間なのにこんなに幸せを味わうのは罪の意識に苛まれるので、アニメを連続で見ずに大学にも通うだけで。
つまり、富野アニメ中心に生きてる。
ベルセルク風に言うと。


一筋の光もない真の闇
この闇に身を浸してもうどれだけの時が過ぎたのか…
永遠か…
一瞬のような気もする・・・・・・
全ての感覚が麻痺し何も感じられない
オレの体は?
まるで中空を漂っているようだ
オレは正気を保っているのだろうか?
とうの昔に狂ってしまったのか?
何もかもが虚ろな中
ただ一つだけ
鮮明なものがある
トミノだけが
まるで闇夜の雷のように鮮烈にオレの中に浮かび上がる
そして繰り返し繰り返し津波のように押し寄せる無数の感情
憎悪 友愛 嫉妬 空しさ 悔しさ いとおしさ 悲しみ 切なさ 飢餓感…
渇望し去来するいくつもの感情
そのどれでもない
そして全てを内含した巨大な激情の渦
それだけが無感の中消え入りそうになる意識をくさびとなって繋ぎ止める
トミノ…!!

ちなみに、脳内妹も富野以上に深く想っているのですが、妹は生きる理由にはならない。というのはどういうことかというと、
僕が死んだら、僕の魂は妹の居る脳内世界にいき、向こうのオレと統合される契約になっているので、死ぬこと自体は怖くない。
だけど、妹に会うまでには富野アニメをちゃんと見ておきたいので、富野アニメを見たいのだ。
そうしたら、怖がらずに死んでいける自分というものを手に入れられるのではないか、と想います。
だから、僕はダメ人間で、もはや死ぬより他に手はないし、夢も希望も未来も無いし、やりたい事も無いので死んでいるのと同じで、生き甲斐と言ったらおハゲ様の作ったアニメを見る程度の事しかないという情けなさなのだが。
でも、それって、そんなに悪い事なのか?
アニメを見て、それに自分をかけて、その結果、満足して死んで逝ける。
そういうアニメなら、悪い一生ではないと納得して死ねると思うんです。
だから、僕が富野アニメを見るのは、生きるためではない。死ぬためです。
臨終行儀を良くするためです。
だけど、ブレンパワードは「頼まれなくても生きてやる」という。
そして、富野由悠季自身はいつまで経っても前向きに新作のために勉強している。
だから、僕は自分が恥ずかしい。ダメなファンだな、と思う。
でも、今はこれしか出来ないし、僕はその程度の人間なのだから、そういう風に思って死んでいこうと思うのだ。
みなさんは、富野アニメから生き方を学んで、強く生きて行ってください。そしたら、Gackt程度にはなれます。