玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

オーバーマン キングゲイナー 22アガトの結晶

脚本/浅川美也
コンテ・演出/笹木信作
作監吉田健一中田栄治
原画に千羽由利子


作画がきれいですな。
作画が良いと、レイアウトもいいし、芝居や殺陣の手数、カット数も多くなる。これは絵コンテ演出の指定だけでなく、やっぱり役者としてのアニメーターのスキルによるもの?フィードバックもあるのかねえ?
いろんなところにいたいろんな人が出会って別れて出会って別れてゴッツンコするのはキンゲらしくて面白いな。
20話以来、連続した話が続いているので、それを意識したらちょっと冗長ではあるが、テンションは高くて良い。20話はキンゲの発動、21話はアガトの結晶の登場、22話はオーバデビルの復活、というふうに引きがコードギアス 反逆のルルーシュっぽくもあるが、一発ネタというよりは風呂敷のたたみ始めでもあるか?
あ、あと、今回はアガトの結晶の中のキャラクターによる密室劇という雰囲気が強く、敵役のブラック・ドミ親衛隊にパイロットが居るのかどうかもわからない。が、顔見せ程度でも交渉する五賢人やピープルを守るアデット隊が出るのは丁寧で良い。ケジナン・エンゲも出るだけで安心感がある。


アガト(agate、アゲート)とは、瑪瑙の意である。
http://xn--zck4aza4jwa5cc8833fii2b4co.com/agete.html

人間関係を主とするグラウンディング(地に足をつけて生きる強さ)を促す力に優れています。
中でも 「レッドアゲート」 は現代社会においてとても重要な、人との絆を強める力を持ちます。


論理的な考え方やものごとに対する直感を高めるだけでなく、今現在のありのままの自分を認め、受け入れることで自分に自信を持ち、まわりの人々に対して誠実な態度で真実を語る力をサポートしてくれるでしょう。
これらのことから夫婦や家族、友達など、身近な人との人間関係を整える力はもちろん、嫉妬や妬みなどのネガティブな悪意から身を守る力があるともいわれています。



こんな方にオススメ

夫婦や家族など、身近な人との関係を改善したい方
ひとと上手につきあいたい方
自分に自信を持ちたい方
嫉妬や妬みなど悪意から身を守りたい方
http://blog.livedoor.jp/selfessence/archives/50961023.html

シベリア鉄道総裁、キッズ・ムントの人間関係が良好かどうかは謎だが、確かに地面を通じて人をつなげるシベリア鉄道であり自信も満々だ!
アスハムサンドにしてくれるわああああっ!
今回は、アスハム・ブーン役の子安武人とキッズ・ムント役の佐々木誠二の怪演合戦がものすごいな。
「拳銃の使い所も分かってない男が、私に挑もうなどと・・・・・思い上がりも甚だしいいい!。虫ケラには興味が失せたわ。いまここでさっさと死ね」とかの音量リズム緩急の付け方が素晴らしい。獣ぶりと老獪さのバランスも。
アスハム子安も肺活量と声の太さと甲高さ、カッコつけと三下っぽさの交錯がおもしろい。
絵の芝居自体も面白いし、61歳のキッズ・ムントが反則気味のパワフルさというネタの面白さもシナジー効果だなあ。ノリノリ。

  • キャラ
    • ゲイナー・サンガとサラ・コダマのペア

今回のゲイナー君はシンシア・レーンを助けようと奔走して、ちょっとブラック・ドミを撃破した程度。
ですが、今回のゲイナー君はサラとのタンデムオーバーマン操縦がラブラブでよい。だが、ゲイナー君は浮かれてないっぽくてかっこいいな。戦闘中にゲインを呼び捨てにする。シンシアについても恋愛感情よりも人助け。男度が高いな!
で、今回のキモはここ。

ゲイナー「すごいスピードに感じるけど、普通の空間じゃない。サラ、大丈夫?」
サラ「さ、寒くない?」
ゲイナー「う、うん」
サラ「この光…キングゲイナーの力と関係あるのかな」
ゲイナー「あると思うよ」
サラ「怖くないの? キングゲイナーだって、あたしたちの理解を超えるものを持っているのよ」
ゲイナー「いまは平気だ。誰かを守りたいって思うと怖さって…消えるみたいだ」
サラ「…シンシア?」
ゲイナー「サラだよ。いまここにいるサラが一番大切だ。シンシアは、一人っきりの子だから…」
サラ「そうだよね…そういうゲイナー君なら、あたしが守ってあげる。シンシアに、もう一人じゃないって教えてあげたいね」
サラはゲイナーの背中に抱きつき、ゲイナ−のお腹に回した両腕に力を入れる。
それがゲイナーが前々回受けた傷を刺激したが、ゲイナーはサラの手の上に自分の手をそっと置く。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Brush/8398/king01_02.htm

ゲイナー君はひたすら滅私奉仕の心。他人をメッチャ思いやる。で、サラ・コダマはそのゲイナーに対して「あんたが守りたいのはシンシア?私?」とカマをかけたりする女心を見せる。ゲイナーはそれを分かって「サラが一番大切」という。エロゲ主人公か。
そして、サラは「私が」守ってあげると。だが、その抱擁はゲイナーを痛める。ゲイナーは「ゲイナー君を守ってあげている私」というサラの女心を傷つけないために自分の傷を我慢する。
うっわー。
おジャ魔女どれみドッカーン!最終回の春風どれみみたいに、皆に良い顔をしようとした主人公は最終的に爆発するのだろうな。「わたし、いい子じゃないもん!」そして巨大化したりするんだろうな。なるほど、オーバーフリーズの伏線をヒロインの愛の重さから始めてるのかよ!やべえ。
富野アニメの男女描写だー。ヒロインの母性愛の気持ち悪さ、ヒーローの優しさの中の弱さを、短いカットで見せてくる。
「ダイヤとマグマの間」でゲイナーが自分を犠牲にしてドームポリスを救おうとしたりして、ゲイナーは元々責任感とヒーロー願望が強すぎる男の子だから、ルル山みたいに格好をつけさせるとすぐに自殺しようとしたり痛みを抱え込んだりする。
ゲイナーはヒーローとしての自分になりたがって、サラは愛を与える人になりたがる。

    • ゲイン・ビジョウ

だから、ゲイナー君がヒーローになろうとして、人間としての自分を見失いそうな時にゲイン・ビジョウが「生きてりゃあデートなんていくらでもできるんだからな」「潮時だ!引くぞ!バカヤロウ!その女がどこに居るのかわかってんのか?」「聞こえるか!俺の声が!」と突っ込みをいれてゲイナーをカッコつけさせすぎないっていう関係が良い。地に足がついてる感じ。
ゲインも昔は自分のオーバーマンに「エンペランザ(皇帝)」って付けたりしてたからゲイナーと近い自己顕示的メンタリティがあり、ゲイナーに昔の自分を見るような親しみがあったのかもな。
それで、エリアルとシャルレ・フェリーベはエクソダスという夢に舞い上がって失敗したという過去が在った。ゲインはゲイナーに昔の自分を見ることで、相対化できて、彼にアドバイスできる自分を実感して、今の自分や放浪期の人生経験を肯定して未来にいけるようになったのかも?
エリアルは過去の自分を思い出や離れたゲインの空想だけに見ていたから、自分のカッコいい死に方にこだわって不必要に死んでしまったのか?(描写不足なので、かなり脳内補完です)
ルルーシュとスザクのゼロ・レクイエムは同世代の若者2人の世界で完結して、物語としては綺麗だったけど。Zコードギアスがあったとして、スザクは次の世代に何か言えるだろうか?藤堂鏡志朗も理想に舞い上がってる人だったからなあ。っていうかコードギアス世界の人間全員が・・・。まあ、ギアスは別にいい。
若者を年長者が導く、というだけでなく、若者が居るから年長者も間違わないで済む。って言うトコロテン式の人生哲学やオーガニッ
ク的なつながりはジジイトミノの実感かもな。
富野は「さっきサンライズの社員を叱ってきたけど、彼を叱ったおかげでその日の午前中を寂しく過ごさなくてすんで感謝している」とか言う。
さびしく放っておかれるのは上司も部下も嫌なのだ。
ゲインはゲイナーを得ることで寂しさを忘れてリア充になれたのかもな。(というとやおい臭いが、まあ、性欲以外のところのでの充足と考えて欲しい)
放浪時代に女ったらしだったのは寂しさの裏返しかもしれん。ゲインって「俺の子供を産んでくれないか?」「ときめくご婦人です」って挨拶代わりに口説くけどやる気が無いんだよな。女子連はことごとく他の男とくっつく。
けど、ゲインは大してガッカリしてないで仕事に精を出してる。女っタラシぶってるのはポーズっぽいんだよなー。ゲイナーと作戦してる方が楽しげ。
もともと、コナとかカリン(別れ際)とか寄って来る女からは逃げてるから、もともとかもしれないけど。
ゲインはあまり物事を求めるって言う感じが無い。エクソダスに関しても「エクソダスで社会変革をせねば!」っていうよりは「仕事だからな」っていうスタンス。ただし、仕事はキッチリやる。
むしろ、若者の前で仕事をきちんとやって、さりげなく人生経験を見せるのが楽しいのか?
「若者を教育しなければ!」っていうよりは「一緒に働けて楽しいよな」っていう。職人肌?

    • アスハム・ブーン

アスハムは寂しい男。彼はゲイン・ビジョウを追い、カリンの幸せを願い、オーバーデビルを求めるが、そうしながらも「求めたものは手に入らないんだ」と言う。
出来の悪い人間ではなく、それなりの能力はあるんだろうけど、万能感を求め過ぎるあまりに不全感に苛まれている。
でも、彼の能力の高さやスピード出世は自分では何もしないドームポリスのピープルの社会にあって何かを強烈に求める心が生み出したものかもしれん。
でも、彼は求めすぎて足場を見ない。アスハムは劇中、よく転ぶ。
(玉の輿をねらうジャボリもよく転ぶ。あと、カリンに振られた後のゲインも「未練を振り切って、」と言いながら転ぶ。)
オーバーマンキングゲイナーにおいて、求めるものは転ぶのか?
っていうか、アスハムは求めっぱなしなんだよな。カリンの心とゲインの力が手に入ったところで、お前はそれで何がしたいねん。だから足場が見えて無くて転ぶんだよ。
「特に何かがしたいわけでもないけど、何かをするには力を手に入れなくては!」という。資格厨か?自己実現なのか?
「私自らの王となるために、お前が欲しい!」
誰かが居ないと王になれないって言う時点で王者の資格は無いよ、アスハム君。
あ、あと、アスハムのシスコンッぷりはとっても親近感が沸くね。「入れろよ!突撃娘!」っていうレイプ未遂っぷりもアスハム君だなー。
三十路の美形という微妙に老けた感じも、アスハム君の焦った感じが出てて面白い。

    • キッズ・ムント

センスの足らないアスハム君と違って王とならなくても既に王者なのである。彼は求めようとしなくても、手に入るのが当然。
鉄道王だからこそ、できるのだよ」
当然自分は人を潰しても良い、という事に何の疑いもない。こいつはオーバーデビルを何故、(おそらくミイヤの街から)掘り起こしていたのか?
「王なのだから当然一番強い物は自分のもの」というジャイアニズムだったのかもしれん。
オーバーデビルを使ってどうこうというよりは持っていて当然だから持つという意識っぽいなー。むしろ、だからこそオーバーデビルはキッズ・ムントの元で安定していたのかもしれん。シンシア・レーンを育てていたので使うつもりはあったのだが。
何に使うかと言うと、オーバーデビル完全体を使うというよりは分割されたオーバーデビルを部品にしたアガトの結晶を維持できて権力を誇示できれば良かったのだろう。全世界をオーバーフリーズさせることよりも、全世界をオーバーフリーズさせる権力を誇示する事が重要。自分自身で何かをしなくとも、力を誇示して他人が勝手に従う世界が彼の世界なのだ。
まあ、核抑止力と考えて貰って結構です。うーん。キングゲイナー世界には核兵器は出なかったと思うんだが、そこはやはり富野アニメ。やはり、核のメタファーはやっちゃいますか。
ま、他の富野アニメ中の核は兵器としての戦術核が主だったけど、今回は政治的戦略核としての立ち位置だったのかな?放送終了してから5年経ってやっと気づいたわけだが!
富野アニメは最低5年熟成させろの法則。ワインかよ!

    • シンシア・レーン

さて、最後の鍵を握るのはシンシア・レーンです。彼女はキッズ・ムントにオーバーデビルを操縦する装置として育てられました。
自我は必要無し。
そのフラストレーションが戦闘やゲームにのめりこむ衝動になっていたのだが。
ゲーム仲間のゲイナー君を傷つけ、その事で今までの戦闘で人殺しを実感しなかったのはキッズのお膳立てだと気付き、しかもキッズ様との板ばさみになった。キッズ・ムントに「人を傷つけるのはもうイヤです」と意思表示をしようとしても「(機械と同じで)誰にでも調子が悪い時はある」と意に介して貰えない。
戦いもコミュニケーションも不可能。
つまり、「どうしようゲイナーたちがいる。どうしたらいいの?どうしよう、どうしよう……はっ、どうしようって、どうすることもできないじゃない。あたし」
圧倒的な不能感が今回のシンシアなのだ。
だが、その空っぽさこそが巫女としての器なのだよな。やっぱり、シンシアは碇シンジの女の子版なのかなー?大人の目的のために自分の行動をコントロールされて、成功体験を自分の力だと思えなくなるっていう。
まー、ゼーレや碇ゲンドウの「母に認められたいから地球を滅ぼす」っていうよりはキッズ・ムントの「いつでも地球を滅ぼせるから奴隷になれ」っていう方がちゃんとした大人って言う感じで賢そうですね。
碇ユイの「寂しいけど永遠に生きて繁殖できれば地球が滅んで息子がトラウマを負っても別にいいよー」っていう空っぽさはレギオンとかオーバーデビルに通じる気持ち悪さがありますね。
そういう、空っぽな力であるオーバーデビルは空っぽのシンシアに答えて顕現するのであった。
なぜ、シンシアはオーバーデビルを呼んだのか?論理的にはキッズ・ムントを助けようとしたのだろうが、でも、あの状況でいきなりアスハムの前でオーバーマンの操縦の真似事をやったのは神懸かりすぎる。キッズ・ムントにオーバーデビルの呼び出し方を習っていたのなら、もっと早くに呼んでいたはず。すくなくとも「どうすることもできない」って引きこもったりはしないだろう。
だから、シンシアはアスハムに裏切られたとか言う表層的なところでデビルを呼んだのではないと思う。
シンシアがアスハムと結託していたのは、「キッズ様を出し抜こうとするアスハムを出し抜いて最強のオーバーデビルを手に入れるって言うことを、キッズ様に秘密でやったら、私はもっとすごいよねっ」っていう自我意識から出たもの。
シンシアは才能と若さを少女の肉体に秘めた娘なのだが、ゲイナーにいっつも愚痴っていたように仕事仕事でフラストレーションがたまっているOLでもある。どんなにシンシアが成功しても所詮はシベリア鉄道総裁の道具。大事にされていても道具。綾波レイでもある?
ただ、レイと違うのはシンシアはもっと自然に欲求不満からの反抗をしようとしてる。反抗というか、キッズに命ぜられた事以上のことをしようとする向上心ですかね。が、アスハムに裏切られて絶望。絶望したのは、何に対してか?大人社会か?
えっと、グダちんは大学受験に失敗して大学に入学した頃に「死に至る病」を読むようなエヴァ厨だったわけですので、糸色望するのは得意です!キラッ☆
(っていうか、エヴァ資料よりも、もっとためになる本を読むべきだった。大学デビューとかノートの取り方とか。ガンダム記録全集とか。)


シンシアの絶望は、シベリア鉄道会社にコントロールされた仕事に達成感が得られず、ゲイナーとの人間関係に失敗して、少しずつ溜まっていった。最後に、自分で考えたたくらみもアスハム程度の小物に利用されて、っていうそう言うことも見抜けなかった事を知った。
シンシアは14話の変化!ドミネーターでは欲求不満ではあるものの、(会社やゲームのルールの枠の中では)無敵で万能感に満ちていた。が、決して自分は万能ではなく、むしろ何にも出来ない上に男に搾取されるだけの小娘でしかないのだ。
絶望した!自分に対する絶望に絶望した!


死に至る病において、アンチ・クリマクスは、まず、絶望を次の三つの状態に分けている。
 1)絶望の内にあって自己をもっているということを意識していない場合(非本来的絶望)
→世の中の自分以外のものに対する自己存在に影響しない程度の絶望
(オーバーデビルの恐怖を感じているだけのサラ。仕事の障害としか認識していないゲイン等の比較的健康な人たち。キッズ・ムントは現時点ではまだ状況を支配していると感じているから絶望状態ではない)


 2) 絶望して自己自身であろうと欲しない場合。

 彼(彼女)が試みる自己の絶対的な支配は内実をもたない。絶望している自己は絶えず空中楼閣を築き、空を切るのみである。彼(彼女)が思い描く「新しい自己」は、絶望に耐え、絶望を乗り越えた輝かしい外観を呈しているが、それは、絶望している自己自身を否定したものの上に築かれるが故に、常に、「砂上の楼閣」でしかない。
 それ故、これはいつも「実験」で終わる。だから、自分で自分をコントロールし、自己の絶対的な支配者なろうとすることには、「真剣さが根本的に欠けている」とアンチ・クリマクス=キルケゴールは指摘する。
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard21.html

→自分が嫌になった状態から自分を変えたいと思う事の絶望。
(ヒーローになろうとするゲイナー。自分自身の王となろうとしたアスハム。)


 3)そして、絶望して自己自身であろうと欲する場合。

自己が自己自身に関係しつつ、同時にその関係そのものを置いた他者に対して関係している場合である。
この「人間存在の本質的関係性」を認識している彼が絶望している場合、彼の絶望は単独の自分自身からだけではなく、第三者との関係におかれた自分自身、もしくは第三者との関係そのものから生じたものである。そして、人間の存在は、たとえたった一人で生きているように思えたとしても、本質的に、このような関係性の中に置かれているのだから、あらゆる絶望は、この「本来的絶望の第二の形」、つまり、「絶望して自己自身であろうと欲する場合」に帰着していく。
 ただし、この絶望は単に自分自身から生じたものではないのだから、自分自身で絶望を取り除き、平安や平静に到達することはできない。絶望者が、どんなに全力を尽くしても、自分だけで絶望を取り除こうとするならば、なお絶望の内にあるのであり、自分ではいかに絶望に対して戦っているつもりでも、ますます深く絶望の淵に沈むばかりである。
 だから、絶望における分裂は、決して単なる分裂ではなく、「自己自身に関わりつつ、同時にある他者によって置かれている関係の中での分裂である。」
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard17.html

絶望は、あらゆる可能性の否定であり、非存在へと向かう精神の運動に他ならない。そこでは現実性は、無力な否定された可能性である。


「『カイザル(皇帝)か、しからずんば無』を標榜している野望家が、カイザルになれないならば、彼はそれについて絶望する。だが、その真の意味は別の所にある。
 彼はカイザルになれなかったために、自分自身であることに絶えられないのである。だから彼は本当は自分がカイザルになれなかったことに絶望しているのではなく、カイザルになれなかった自分自身について絶望しているのである。
・・・この自己が今では彼にとって耐えがたいものなのである。・・・カイザルになれなかった自己自身から逃れられないことが、彼には耐えられないのである。」


http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard18.html

 彼(彼女)には、自分で自分が嫌になるもう一つの「自分」がある。その「自分」は、たいていの場合、自己が理想として夢想した「自分」である。その夢想され、想定された理想の「自分」から見て、自己自身がはるかに遠くにしかあり得ないことを知り、自分自身に絶望するのである。ここに、現実に存在する自己自身をないがしろにしようとする傲慢さが登場してくるのである。ここには、自己否定をしようとするもう一つの自己を肯定してしまう傲慢さがあるのである。
 この絶望では、自己の傲慢さが最も端的に現れる。彼(彼女)は、実は、自分自身であろうと欲するが故に、自分が嫌になり、自分自身であろうと欲しないのである。


「絶望して自己自身であろうと欲するには、無限な自己についての意識がなければならない。しかるにこの無限な自己は、もともと自己の最も抽象的な形、その最も抽象的な可能性に過ぎない(p.97)」


この抽象的な自己、抽象的な可能性を求めるが故に、彼(彼女)は自己自身に絶望するのである。そして、絶望しながらも自己自身を思いのままに支配しようとするのである。彼(彼女)は、絶望のうちに自分自身を造り出そうとさえする。
 人間は自分の自己を、自分がそうありたいと思うような自己に仕上げようとし、自分の具体的な自己の中でもちたいものともちたくないものとを規定しようとする。自分の中の気に入った部分と気に入らない部分を区別させ、自分の欲する通りの自己を自分で造り出すために、気に入らない部分を何とかして捨て去り、それらの規定から自己を解放しようとする。こうして、彼(彼女)は、自分を一つの全体として捕らえることができずに、分裂する。
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard20.html

→自分が嫌になっている上に自分が置かれている関係性の中で何も出来ない自分以外に成りえないという事のみを知り、自分の存在を憎悪しつつ悲惨な自分自身であり続けようと欲する。
(シンシア。および、シンシアよりは度合いは軽いが、オーバーデビルに弄ばれて不能感を実感したアスハム (←追記アスハムはやっぱり2段階目の絶望に過ぎないな))

全部がキルケゴールに当てはまると言う分けでは無い。が、シンシアが自分自身+自分の周りの関係=「自分が世界に関わる可能性」に絶望していると言う事は死に至る病を読まなくてもアニメを見ればわかる。
そして、対象の無い無限の憎悪となる。(対象が神であった場合もまた無限である)
シンシアは失敗した自分の人生を、失敗した惨めなオーバーマン乗りだと絶望しつつ、惨めなオーバーマン乗りである自分自身を主張し、自分の頭の中で(無自覚的なので絶望と言うよりはトランスか?)もはや自分を救ってくれないとわかっているキッズ・ムントを救うオーバーマン乗りになろうとして、自分の惨めな人生を取り戻そうとする。
結果、シンシアはオーバーデビルを呼ぶとも無く、求めるとも無く、トランス状態のままに乗り込んでしまうのだ。

    • オーバーデビル

キルケゴールによると、悪魔の絶望がもっとも深い絶望だという。
「いやだ。おれは抹消されるのを欲しない。おれは神をやり込めるための証人として、神が低劣な著作者である事の証人として、ここに立っているのだ」
悪魔は神の救いを拒否する事を唯一のアイデンティティーとして持つ事で悪魔足りえる。そして、それが絶望なのだ。


オーバーデビルが復活した理由と言う者が分からんのだ。語られていない。
で、どうも見る限り、シンシアのオーバーセンスだけの問題ではない気がした。ゲイナー、ゲイン、シンシア、アスハム、(サラはおまけかなあ)をオーバー・デビル自身が呼んで、そこにキッズが来たって言う感じ。マルチナは元々いたけど凍っている時は意識は飛んでたっぽいから関係ないかな?
つまり、どういうことかと言うと、オーバーデビルは自らの絶望を共有する眷属のオーバーマンと、それに近い絶望を抱えた人間を呼び寄せたみたい。その絶望が集まって臨界質量を超えたところで、シンシアのトランスを引き金として、そこになだれ込んで顕現したように見える。
オーバーデビルに付いては、まだ出たばっかりだから、また次で書く。眠い。
あと、今思いついたんですけど、オーバーセンスが引きこもりだと強いっていうのは現実逃避とか絶望との親和性なのかも?


うーん・・・。
あー、なんか、ゼロアカ評論っぽい気持ち悪い視点かもしれないっすね。死に至る病を持ち出すとか、エヴァンゲリオンかよ!キモヲタキモッ!
すんませんねぇ。しかも、あんまり寝てないからキルケゴールの原典はあんまり良くわかってなくて誤読かもしれん。サーセン
でも、ほら、なんとなく終盤だからデビルは復活しましたよー、とってつけたラスボスですよー。っていうだけだと寂しいから理由くらいでっち上げたっていいじゃないっすか。ねえ?へっへっへ。
おれは、自分自身が面白がるためならどんなホラだって吹く!
はい、僕も絶望してます。嘘の中にしか希望を見出せないんだ。
っていうか、普通にまとめてみてたらわかるよな。皆、気づいてるけど、僕みたいに長文を書くよりは衣食住に関係した仕事をしてる方がいいって言う真人間だからわざわざ書かないだけで、みんなわかってるよな!
みんなえらいなあ。
絶望した!非生産的なブロガーに絶望した!
俺にできるのはなんとなくアニメが面白い気分を作るだけ。ハイパーセルフプレジャーのみ!俺の人生はオナニーなんだ!
だが、気持ちよさという物は気持ちの良さなのだから、良いでしょう。ね?
もちろん、こういう類型化が全部当てはまるわけではないって言うのが物語の幅の広さでもあるです。キンゲキリスト教の話でもないしな。
「人は変わって行くものよ」というのがニュータイプ思想の軸の一つでもあるのだし。


 ここから、「絶望が完全に取り除かれた場合」を考えることが可能である。それは、自己が自己自身に関係しつつ、同時に第三者と関係している中で、なお、自分自身であろうと欲する時の状態に他ならない。
 絶望してなお自分自身であろうと欲する者は、この関係性の中で、自分の存在の根拠を見出すのである。これがここから考えられうる「絶望が完全に取り除かれた状態」である。


人は、罪の赦しや自己自身の契機としての絶望に「つまずく」。そして、そこでまた、つまずいて信じる気力を失った絶望と躓いて信じようと欲しない傲慢の絶望の中に陥る。
 キルケゴールに言わせれば、「キリストが罪をゆるそうとしたことに、人は躓く」のである。「神と人間との間に無限の質的差異があるという点に、除きがたい躓きの可能性が存する(p.182)」のである。


 だが、「自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲する時に、自己はこの自己を躓いた力の内に、はっきりと自己自身の根拠を見出す」(p.188)のである。


だから、アンチ・クリマクス=キルケゴールは、絶望を乗り越えるもの、絶望を自己の精神の自己自身への契機として位置づける信仰を絶望からの救いの道として位置づけようとするのである。まさに、「信じる者は救われる」のであり、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」なのである。
http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/kierkegaard_1/kierkegaard21.html

愛と勇気は言葉!信じられれば力!
富野アニメでは神と言う絶対者をあまり規定しない事が多い。むしろ、他者は口だけの愛と勇気を語るだけだと割り切って、その上で求め合おうと。
ゲインとゲイナーとヤーパンの天井の、互いを個人として尊重しつつ不完全なバカの集まりだが助け合うっていう終盤のオーバーヒートはこういう気分かも。
絶望から生まれたオーバーセンスをさらに圧縮して爆発させてオーバーヒート!時代を拓けるぞ!
富野由悠季監督が若いスタッフと絡んで元気になって、って言う個人的な事情もあるのだが、そういう所も人の営みとして、百年以上前のセーレン・キルケゴールの著作とも関連しているという普遍性があるのかもしれんとかなんとか。



あと、オーバーデビルって大きいのにブサイク!(小林愛
やっぱり、あきまんさんには悪いけど、あんまり好きじゃない。強そうじゃないし。すぐに手とか折れて顔も潰れるし。弱そう。ラスボスなのにー。
オーバーデビルの本質は絶望したオーバースキルだとしたら、ボディの耐久性は問題ではないかもしれないけど・・・。
でも、デビルズ・アイシングがオーバーデビルの歌っている歌だとは思えないんだよなー。声が乗ってない。
まー、頭の中に響く歌だから口パクはいらないとは思うけど。妊婦のメタファーではありそうだから、もっと発狂した妊婦と言う感じにキングゲイナー顔面の表情が歌にあわせて変わったり、常に触手が踊り狂っていると言う、邪悪な天女と言う感じの芝居を付けたり、そういう動きが想像しやすいデザインだったらもっとよかったかなあ。


あと、吉田健一童顔作画のアデット先生はかわいいね。
吉田健一氏だけではなく、キッズ・ムントみたいな殴り合いって言うのはジブリっぽい。爺が強いって言うネタとか。ただ、悪役が一本化しないで派閥抗争を繰り返すのは富野っぽい。