玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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赤毛のアン12アン・告白する

まあ、そろそろかとは思っていたが、やはりとみの喜幸だね。
カット割が細かいな!
あと、アップが多い。アップというか、クローズアップの短いカットで注目させるっていうか。
今回はマリラが紫水晶をアンが無くしたと勘違いして、アンにピクニックに行ったらダメって言うんだけど、勘違いだと分かったのでアンがピクニックに行って楽しいなーって言う話。
その、話の進行にあわせての絵コンテのリズムが音楽的で素晴らしく楽しい富野分。
アンにイライラしてひたすら家事に打ち込むマリラが短いカットの連続で執拗に、執拗に描かれて面白い。
そのあと、誤解が解けたところで、そのテンポがビタリと止まり、あああああっっとなったら、今度は軽快にピクニックの用意をし、高揚したピクニックと成る。


ここで、19世紀の家事労働やピクニックでのオルゴールなど、かなり細かい備品の描写や芝居の考証がなされている。特に、マリラが激しくフラストレーションを家事にぶつける所は、とても多くのシークエンスを描いている。しかも、BGMがほとんど無いと言うのに、その家事労働の反復動作(磨いたり擦ったり運んだり)が音楽的テンポを作り出している。そういう韓国のパフォーマンス集団っていたよなサムルノリだっけ。そんな感じ。
カット割のリズムもリズムを作り出してる。
トミノすごいな。作画した人もすごいが。


ピクニックから帰れば、アンのひたすら続く長セリフは口パクこそ在れ、ほとんどナレーションと成り、帰宅から夕食後までのアンの映像に合わせてひたすらアンのセリフが続く。
つまり、音声セリフの時間経過と絵の時間経過がずれているのだが、それによってひたすら長時間アンがしゃべりまくっておるということをスピード感と共に見せている。
ここら辺はさすが、ツギハギの富野喜幸である。
これを見ますとシノ・プロ(オオタキ・プロダクション)でのCM制作を通じた、「短時間での物語性の構築」がkaito2198氏が探していらっしゃるタツノコ系や世界名作劇場シリーズ以外の第3のルーツかもしれないとか思ったりするのですが、実際富野監督が関わったCMは知りません。スポンサーとの直接的な折衝も重要だったのではないかなあと。
そこで、アンが退場した後、テンポがグッと落ち着いてマリラとマシュウの会話でアンについて大人が意見を述べて終る。
最近の僕は富野監督の音楽性について考えていたので、こういう風な見方をしましたよ。


あと、前前回の富野コンテ回も日曜学校の話だったのですが、今回もモブキャラの芝居が多いのがトミノっぽくも在り、またジブリっぽくもあって面白かったです。
ボートから落ちそうに成る人の重力表現は宮崎駿っぽくもあり、キングゲイナーっぽくもあり。


作画的な感想を言うと、歩いているマリラのスカートが階段や地面に横たわる丸太の上を通過すると、背景に掠って形が変わるところがとても上手く描けてるなーって思いました。板についた感じ。CGで無造作に貫通しているようなものを見慣れていると、こう言うところで感心してしまう。


キャラクター的には、勘違いでアンをおもいっきり怒っていたマリラが、自分のウッカリに気付いたら「あんたが私を許してくれるなら、私もあんたを許してあげるよ」という発言がツンデレ全開だ。ババアなのだが。
でも、サバサバした印象だったのでよかった。
すぐに許してピクニックに行く準備にアンとマリラがてきぱきと取り掛かるところが楽しかったなあ。
沈んでいた空気が一気に晴れる感じ。


ところで、前半に泣き崩れてベッドに倒れこむアンが思いっきりスカートの中のドロワーズを晒したのは、

富野「だから、さっきも言った宮崎さんのフィルムがロリコン趣味の部分が見えてね、って事についてね。
「本来、ロリコンなんでしょ、だったらそれ言っちゃいなさいよ」
それを言わないでこうしているから、いけないんだ。どういうことかっていうと、白いパンツが見える、その瞬間を、この描き手というか、演出家が、ファッションでしか見せていなかったり、知った風なものでしか見せてなかったり。(キャラクターの)肉付きがね、見えるって所まで意識しないで出すんなら、それは止めて欲しい。
それで、パンツの向こうも、もうひとつ脱がしたいんだろうって、それがあるのか、無いのか。やっぱり知った風な、ロリコン漫画風になっているのなら、それこそ教育上良くないから止めて欲しい。アニメなんていくらでも、見せないで済ませられるんだからね。
見せるからには、少女のお股の所に食い込んでいる白いパンツがね、光っているのか光ってないのか。「見えちゃったんだよ」なのか、「見えたから、どうなんだ」という部分なのか?
それはキチンとやって欲しい。例え、セル絵であってもなの。
だから、「その子のパンツを見てしまった」「見えてしまった」「見なくちゃいられなかった」。つまり、どっちかキチッとしてくれないと、そのキャラクターを出した意味が無いというよりも、僕、失礼じゃないかと思うんですよ。うかつにパンツを描いちゃって。失礼じゃないか。」
http://wijayu.at.infoseek.co.jp/tom_an2_2.txt

という発言からすると、どうなんでしょうね?「見えたからどうなんだ」パターンかなあ?「パンツが見える事に頓着しないほど悲しい」ということか?


っていうか、宮崎駿は多分、本能的に絵を動かす過程でパンツを見せる事を自然体に描いていると思うのだが。
そこに理論的裏づけを要求する事で、逆に富野由悠季の二次元少女に対する真摯過ぎる気持ちを現していて、富野大好き。