うわっ。新2巻の半分、つまり旧第6巻分を読むのに1カ月かかってる…。バイストン・ウェル物語に似ている構造のウェブ小説『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』も半分くらいしか読めてないし。
あと1週間で新装版2巻を読むには、他の事を一切しない生活にシフトしよう。うん。生活って邪魔だよな…。
では、ネタばれ
しかし、文庫1巻を読むのに1カ月もかかってるので、あまり感想が思い浮かばない…。
とりあえず、登場した女性メインキャラクターが、シャーン・ヤンやカレン・テランダ、コム・ソム以外はことごとくひどい目に遭っていきますね。(まあ、この三人も性的にはかなり乱れていましたが)
いや、カランボー・シン等の少年や男たちも同様か。バトルロワイヤルみたい。ルールが無い戦争である分、リーンの翼はさらに酷い。死亡フラグもなく、負ければ、死!
そんなヒリヒリした感覚が詰まってました。
ダーナとダムなど、互いの決着が付きそうで付かず、それぞれの戦場で知らぬままに散っていく…。ただ、彼ら、彼女らが死の間際にリーンの翼に包まれていくのか?!
そのようなヒリヒリとした戦場のスピード感と哀歌はあるのだが、多少やっつけ仕事な感じもあるにはあった。
旧版と読み比べながら読んでましたが、旧版は後半になるにつれ、著者:富野由悠季は明らかに戦闘描写とかに省略が多くなって、やっつけ感覚が増えていきました。連載作品だし、アニメの監督業もやりながらだし、Zガンダムと言う爆弾が出てくる時期でもあるし。
新版はそこら辺の省略や戦略的に稚拙だった所に工夫が加わって書き変わっていたし、生活描写や精神的交流の余裕のようなものも付け足されていて、さすがにそれくらいは成長するよな、という感じ。豊かになったんですね。長いけど。いや、読んでる時にだれる感じはなかったですが。むしろ、密度が濃くて読み返しながら。
それから、富野監督はやはり、映像作家なんだよな。って思った。文章の性質が、文章そのものの美しさとか、文体の巧妙さと言うよりは、文章を一度頭の中で映像と動くリズムに置き換えて楽しむ、という翻訳作業を行って読むべきタイプの作家のような気がしたので、そうした。一文の中で主観がどんどん入れ替わるのは、絵コンテの文法、か?一文の中でもカットが割られている感じ。
と、同時に、絵にはできない概念をも伝えたいという熱望もあるので、色々と混とんとしていて興奮する。
あんまりはっきりと思い出せないので、箇条書きにしようか。
- 大体の内容。
1.敵国ガダバの王子シュムラ・ドウの非道を討つ迫水(超勇者)
2.女王リンレイへ凱旋する迫水の栄光(スター・ウォーズEp4みたい)と、傾国を実感し始めるゴゾ・ドウ(超渋い)
3.敵の機関砲兵器工廠を奪う迫水隊(悲劇の中でも戦いは続く)
4.兵器工廠を奪い返そうと迫るガダバのダムと、元ガダバで迫水についたダーナの戦いと別れ(取っ組み合いが男らしい)
5.ゴゾ・ドウ正規軍と反乱軍の決戦(戦国戦記、知略戦略もの。ゴゾと迫水の対決)
6.ガダバ首都攻略戦(新世代戦争の予感)
7.小倉への第三の原子爆弾を阻止する迫水
- ノストゥ・ファウの悲劇
ああ、この妖精の女の子は6巻前半の悲劇のヒロイン。と、いうとほとんどの女性キャラクターが悲劇的なんだが。
やはり、人形のような妖精の女の子と言うとインパクトあるよ。
迫水と少しずつ距離を縮めて行くのが良かった。
いや、ノストウだけじゃないな。アマルガンとも、リンレイとも、他の女や武者とも、迫水が距離をじりじりと近づけていくのが、特に目立ったイベントもなく自然に行われるのが良かった。
ノストゥに戻すと、末期に言葉が加わったのは、オーラの交感であっただろうか?奴隷のヤク中だった女の子が勇者に向けて最期の言葉を残す、というのは成長だったのだろうか。悲しいけれどね。
- グーベルゲン・ニーベルの影
スウェーデン人の技術者で、バイストン・ウェルに重機関砲を持ち込んでガダバをさらに強圧的な国家にした男。
いわゆる死の商人のような男で、ノストゥに酷い事をさせたし、全然いい所が無い。のだが、バイストン・ウェルをラグナレクの神話として語るなど、インテリ的なロマンチシズムを持ってもいる。それが彼を死なせる事になるのだが。
ある意味、バイストン・ウェルを洞察していたのかもしれん。富野自身の作った設定を語るキャラだし。
ただ、その世界としての広さを自分の知恵で洞察した範囲を真理と断じてしまった事が、彼の認識の狭さであろう。
また、彼は地上人として迫水と似た所もある。迫水は剣を使って生き延び、グーベルゲンは自分の機関砲技術を売って異世界で生き延びた。
それを迫水は戦乱を招く悪と断じ、「土地に合わせられなければ死ねばいい」とまで言った。だが、迫水自身もガダバの首都・ドラ・ロウ(またはベッカーラ)を攻略するときに、城壁を超えて爆撃を行う戦法を編み出した。迫水も文明のダークサイドに落ちていく…。
地上世界から来た勇者が地上の文明で戦うというのはガーゼィの翼やダンバインのショット・ウェポンでも描かれているし、ライトノベルの「ゼロの使い魔」や前述の「まおゆう」でも使われている構造である。ゼロの使い魔はルイズが可愛いという事くらいしかちゃんと見てないし読んでないし、魔王勇者も最後のオチを見てないので、そこで描かれている文明の向こう側にある認識論はよくわからんのだが。
そして、迫水は爆撃により敵の王都城を落とすのだが、そこで「リーンの翼は剣の時代の勇者にこそ有効であり、県の時代はもう終わる」と実感してしまう。その瞬間、彼のバイストン・ウェルでの勇者の物語も終わる。うわー。
- ゴゾ・ドウは漢
爺になったラオウと言う感じだろうか?超強い。あと、超レイプ魔。
でも、安らぎを得られる友はひとりの旧臣、安らぎを得られる女も一人の老女。一代で征服をなした英雄王の強さと悲哀だなー。富野さんはオタクの父のような人だが、こういう超マッチョの魅力を出してきたりするから困る。
彼と迫水、両雄並び立たず、闘いは一瞬!
ゴゾの倒し方は、旧版ではゴゾに剣を折られた迫水が、その一撃のまま突出し、残りの刃元で脳天を斬殺するというもの。剣技による一騎打ちと言う、剣豪小説の作法。
新版では、剣を折られた迫水はゴゾの懐に飛び込む、そこまでは同じだが、剣の代わりにとっさに拳銃を抜いてゴゾの脳を射殺する。ゴゾは戦う前に、剣を向ける迫水の気合に押され、拳銃を捨てて青竜刀を選んでしまっていた。
新技術を器用に使う若い迫水と、最後に拳銃に信頼が置けない老いた勇者ゴゾの対比が強まっている。ゴゾは、なりふり構わず射殺しておけばよかったのだ。だが、一騎討ちを選んだ。
グーベルゲン・ニーベルとゴゾ・ドウの件の大部分は旧版と共通しているが、それが新版3巻以降の技術革新を使ってバイストン・ウェルを蹂躙して覇王となるシンジロウ・サコミズ王のダークサイドへの道を暗示させている。富野監督はOVAのリーンの翼を作る時に80年代のリーンの翼は読み返さなかったとおっしゃっていたが、いやあ、それは韜晦でしょう。サコミズってダース・ベイダー?あり得ない話じゃないな。ガンダムもスター・ウォーズの影響にあるし。オビワン・ケノービがアマルガン・ルドルか?
- アマルガン・ルドルは戦士
アマルガンが裏切る事は旧版の口絵のものすごいネタばれ地獄でわかるんだが、あまりにも唐突に見えるというのが巧妙な書き方で、それに気付かない迫水の純朴な所だ。
でも、読み返したら、気付かれないようにすれ違ってるんだよなー。アマルガンとリンレイの間で。むしろ、勇者迫水がヒロインや最終兵器のようで、戦士アマルガンと女王リンレイが取り合う事が水面下で進んでいる。戦後の頼朝と義経のように再興した国家をまとめるための次の敵と言う歴史小説みたいな話も出ているし。迫水も、それは懸念しているんだよな。確かに。
でも、迫水は心のどこかで最初に自分を引き上げてくれたアマルガンと決定的に断絶する事は無いんじゃないかって、呑気な部分もあった。最後の城攻めで、闘いの血に濡れたアマルガンと、戦闘をしていない自分を比べて恥じらってしまうのも、どこか迫水はアマルガンを男としての師匠として思っている甘えがあったようだ。
アマルガンと迫水の最後の落ち着いた語らいとなったベッカーラの前の農家の屋根での偵察の場面でも、迫水はアマルガンが自分に対して気遣ってくれる事を嬉しく思う。
旧版では、二人は出会ったころの野盗時代を思い出して胸を熱くする。新版では、その文は、ない。
むしろ、迫水は自分がいつの間にかアマルガンを超えた勇者となってしまった自分を実感し、自分は女王リンレイのための騎士でアマルガンはただきっかけを作った戦士だと感じてしまう。新版ではアマルガンをいつの間にか超えた迫水の自信と戸惑いが強まっている。アマルガンが自分を手元に置こうと気遣ってくれる事を嬉しいと思いながら、尊敬していた男が自分におもねるようになったと感じ、その寂しさも感じたのではないか?
ここら辺はカミーユとクワトロの関係にも似ている。男って、強さを追うもので、強さの序列で相手と関わるものかもしれない。だけど、それって・・・。どうしようもないな、男って。