玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ベルリの殺人考察第3部第20話 自分殺しのストレス

  • 放送当時の感想

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  • 目次

「はじめたいキャピタルGの物語」・「ガンダム Gのレコンギスタ」感想目次 - 玖足手帖-アニメブログ-
Gレコ2周目の感想目次 殺人考察&劇場版(パリ) - 玖足手帖-アニメブログ-


  • 前回の殺人考察

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 昨日ガンダム Gのレコンギスタ劇場版第一作「行け!コア・ファイター」が限定とは言え東京で試写会が行われたのだが、私はGレコのTV版のベルリの殺人考察を始めたからには終わらせなくてはいけない。
 正直、回を追うごとに自分のGのレコへの解像度が上がり、強化し過ぎになり、長文になり、物理的にも徹夜になることが多く疲労が強く、生理的にブログを書きたくないと体が言い始めてきた。のだが、オタクなのでやります。


 ところで、今回は出番の少なさの割にファンも多いGit団のキア・ムベッキ隊長が活躍する回ですが。第20話「フレームのある宇宙」を今回の記事を書くために見直して、過去の記事を読み返した。
 しかし、過去の記事はメカニック的なロボットアニメとしての格好良さやSF設定としてのビーナス・グロゥブに着目しており、あまり心情を汲み取ったものではなかった。また、第20話を見返したところ「ベルリの殺人考察」という点ではほとんど書きたいアイディアが浮かんでこなかった。
 なので、バンダイチャンネルではなく、コマ送りが出来るBlu-rayディスクで現場百遍と見返したところ、むしろ今回は「キア・ムベッキの殺人考察」とするべきではないかとの着想を得た。

  • 殺人は何故苦しいのか

 ベルリは結局、キア・ムベッキの死について、それほど傷ついていない様子だった。まあ、ベルリにとってキア・ムベッキクレッセント・シップをハイジャックして、ベルリ自身に蹴りを入れて、金星の偉い人のロザリオ・テンやラ・グー総裁に反乱を起こした悪人という印象で、ほとんど戦闘以外に接点はなかった。彼の自己犠牲についても、ベルリがリアクションをする描写がなかった。(すぐにラ・グーが出てくるため)



 では、キア・ムベッキという男の戦いと死はこの物語にとって、無意味なのか?といえばそうではないだろう。最終回の感動的なクン・スーンの芝居につながっているし。なぜ、最終回のクン・スーンが感動的なのかというと、人種や国の違いを超えてベルリのことをキア隊長と同格の人と認めたからです。
ガンダム Gのレコンギスタ  7(特装限定版) [Blu-ray]


 そこで、ネームドキャラクターでベルリが戦い、殺害した人物の共通点を洗い出してみた。結論から言うと、ベルリは「自分の似姿」を殺してきているのである。だから、殺人考察で散々ベルリのストレス状態に重点を当てて観察してきたとおり、「自分で自分を殺すから苦しい」のである。Gのレコンギスタを一種の教養小説として見た場合、ベルリが殺す相手はベルリ自身の特徴や概念の一部に似た点を持っており、それを殺していくベルリは段々と追い詰められていく、という展開になっている。

 第1話でのベルリはキャピタル・ガードの候補生で、戦士ではなくキャピタル・タワーの保守点検業務の公務員を志望しており、戦争や殺人にはリアリティを持たず、一般論として「悪いことだ」と思う少年であった。戦争や殺人を知らないからこそ、第1話のように
「そういう気分でいるから殺し合うようなことが起こるんです」と、一種俯瞰した他人事のような意見を述べる。が、戦争や戦闘に巻き込まれていくベルリは、もちろん生来の平和主義から殺人を肯定したり楽しんだりはしないものの、殺人をしたくなくても生き残るために殺してしまったり、他人が殺し合うのを見て苦しんだりして、殺人の当事者として少し性格や行動パターンが変わっていく。具体的には、自分の戦士としての力を期待されているのを知り過度に責任や戦争の業を自分一人で抱え込もうとしがちになっていく。(大気圏突入も独りでする)


 「戦争における「人殺し」の心理学」という本がある。富野由悠季監督も読んでいたとガンダムエースで連載されていた対談集で語っている。僕は「人殺しの心理学」は買ったけど途中までしか読んでない。富野監督オススメの「統治二論」と「方法序説」と「文明崩壊」も買ったけど触りしか読んでない。
戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)


 その本によると、「戦場において人間は自分が殺されそうな時よりも、人間を殺す時の方がPTSDになりやすい」ということが書いてある。ベルリはそういう体験を26話に渡って食らってきたわけだ。
 また、「人殺し」の心理学によると「第二次大戦まで、15~20%しか歩兵は敵に向けて発砲が出来なかったという。しかしベトナム戦争では90%以上が発砲した。」という事例が紹介されている。これは富野監督も対談集で語っているエピソードだ。
 「教えてください。富野です」の津田塾大学の臨床心理学教授の山崖俊子氏との対談で、当時の「長崎県佐世保市の小6女児の同級生殺害事件」に絡めての話。当時、富野監督はこの事件に多大なショックを受けたようで、複数の対談でこの事件のことを話題にしていた。
 で、『戦争における「人殺し」の心理学』だが、富野監督が語るには「教えてください。富野です」138Pで

 ベトナム帰還兵の聞き取り調査からは、戦場で兵士が最もストレスに感じたのは、自分が殺されるという恐怖感ではなく、自分が誰かを殺すかもしれないという恐怖感だったということもわかったそうです。そんな兵士たちに銃の引き金を引かせた、その技術論はものすごく簡単で、人型の標的に発砲する訓練を繰り返したという、それだけなんですよ。それまでの標的はただの○だったんですね。それを人型に変えて、しかも動かした。突然視界に入ってくる人型の標的に向かって反射的に撃つように訓練した。そしたら発砲率は90%にまで跳ね上がったんです。

 という、なかなか含蓄のある歴史的エピソードを富野監督が語っているが、これは「殺人ゲームは殺人の訓練」という言説にもつながるし、実際、『戦争における「人殺し」の心理学』にもゲーム批判が有る。そのため、角川書店としてはまずいと感じたのか、著作権的なものなのか、「教えてください。富野です」を再編した「ガンダム世代への提言」ではこの話題の前に対談がカットされてしまっている。人殺しの闇は深い。(雑誌連載で掲載された対談が単行本未収録の回もある)
教えてください。富野です
ガンダム世代への提言  富野由悠季対談集 I (単行本コミックス)


 まあ、買ったのに要点しか読んでない僕も悪いんですけど、「相手がザクなら人間じゃないんだ」という機動戦士ガンダムアムロ・レイのセリフのように、敵を人間ではなく反射的に殺せる人型をした的として扱えば少年でも殺せる、というのは富野監督のアニメでは割りとある考え方だ。

  • ベルリが殺してきた人たち

 後半になってきたので、これまでベルリが殺してきた人たちを振り返ってみる。
 そうすると、そこにはベルリと被害者の共通点が有ることに気づく。富野監督は『戦争における「人殺し」の心理学』などを勉強して、その上で残虐殺人ファイトロボットアニメを作りつつ、しかし殺人をエンターテイメントとして楽しむことには反対という微妙な思想で制作をしている。子どもには殺人はやっぱりリアルでやったらダメというふうに伝えたいけど、残虐殺人ファイトアニメを作ってしまう。
 じゃあ、どうやって殺人がつらいと伝えるのかというと、やはり「自分と似た人を殺すのがつらい」という手法になったのではないかと推察する。


・第2話 カーヒル・セイント大尉「アイーダを愛するものとしてのベルリ」
・第4〜6話 カットシー部隊、デレンセン・サマター大尉「キャピタル・ガードからキャピタル・アーミィになってしまう可能性としてのベルリ」
・第10話 ベッカー・シャダム大尉は殺されていない。彼はガイトラッシュによって死ぬ。
・第12話 ベルリのアサルトパックの牽制攻撃で中途半端に生き残ったアメリアとキャピタル・アーミィのMS部隊がザンクト・ポルト付近で大乱戦になってたくさん人が死ぬ。「スコード教の信者として聖地を守りたい気持ちのベルリ」が殺されたとも見える。
・第14話 宇宙からの脅威のトワサンガ人と断じたモランを数えながらベルリは殺す。しかし、殺そうとしたリンゴ・ロン・ジャマノッタが投降してメガファウナの仲間になるし、ベルリとも年が近い。「トワサンガ人であっても、ベルリ自身と同じ船の仲間になる可能性」を持った兵士をベルリは殺した。
・第15話 6回も「死ぬな」と言いながら牽制などでアサルトパックを砲撃して、目に見えないほど遠くのモランのパイロットを殺した(これはベルリは自覚していない)
・第16話 アイーダさんが姉だと知らされて激昂し、ガヴァン隊の1人を興奮状態で半ば無自覚に殺害。「レイハントン家の息子のベルリがトワサンガで育ってパイロットになっていた可能性」を殺す。
・第23話 ロックパイ・ゲティも愛する女性のために戦ったし、「トワサンガ人の視点の主人公として、ベルリの似姿のエースパイロット」
・第24話 バララ・ペオールは女性なのでベルリと似ていないかもしれないが「艦隊を圧倒するほどの力を持った完璧なパイロット」という属性はベルリにも有る。(バララの生死は不明だが)(カミーユのように、バララとベルリが交信した感じもある)
 そして、最後の敵が学校の同じクラスの先輩のルイン・リーと、その彼女でベルリと一緒に旅もしたマニィ・アンバサダ。そして、白いG-セルフはその影のような黒いG-IT(カバカーリー)という同じG系モビルスーツの究極同士の死闘となる。世界の果ての金星まで行ったのに、同じ学校に通っていた先輩に個人的に嫌われて殺されそうになるっていうのがラストなので。
 文学的にGレコを読むというのはあんまりない試みだと思うのだが、アーシュラ・K・ル=グィンのゲド戦記影との戦いのようなモチーフがGレコの戦闘には有る。(もちろん、Gレコは資源や資本や政治にも踏み込んでいるので戦闘だけの話ではないのだが)
(主人公と敵が似ているというのは仮面ライダーデビルマンでもやっているし、イデオンもそうだし、アムロとシャアもそうかもしれんのだが。Gレコの場合ははっきりと設定として主人公と敵が似ているわけではなく、ベルリ少年を構成する要素が、敵たちに分配されている風に作劇されている。そして、敵はベルリと自分が似ているとは思わないことが多く、ベルリが殺した後に一方的に殺した相手との共通項を感じて自分で自分を殺したようなストレスを溜めていく。まあ、人が人を殺すというのは本質的にはそういうことなのかもしれないのだが)


 つまり、コロニー落としとか隕石落としをする悪いジオン星人をガンガン殺していったアムロ・レイに比べるとベルリは撃墜スコアは少ないものの、ベルリは殺人の質として「人を殺しながら自分のことも殺していく」というしんどさが有る。ファーストガンダムは「子どもが戦争を起こした大人を殺していく」という反逆の物語でもあった。
 子どもにとっては戦争を起こして子どもも戦争に巻き込む大人は異物であり敵なので、殺してもそんなにしんどくない。でも、ニュータイプとして同じ人間だと実感できたララァを殺したらしんどい。カミーユニュータイプ能力で交信しつつ殺し合うので壊れた。


 そして、ベルリ以外のエースであるクリム・ニックは「大統領の息子で天才の自分が活躍するために、凡人や他国の人間を容赦なく利用して殺す」だし、マスクは「クンタラを差別する世界を肯定するやつはぶっ殺す」なので、「自分のために、自分と違う相手を差別できる人間は殺してもそんなにしんどくない」。リンゴ・ロン・ジャマノッタは「ラライヤの騎士であります」という気持ちでラライヤ以外の敵を差別して殺す。ラライヤは最後に戦艦を撃沈させて大量殺戮するが、軍の都合で偵察に出されて記憶喪失になって、一時期人形のようになってしまっていた彼女なので、「軍艦などを大きな玩具としてはしゃいでいる大人」には恨みがあったんだろうなあ。(最終回におけるアイーダとベルリの行動の違いは、その時に論じる)


 結局、相手を他者として差別できる人間は攻撃者となりうる。


 戦争における「人殺し」の心理学はつまみ読みなのだが、Gレコに近い部分を抜き出してみる。(本当に僕は本を読まなくなってしまい、良くない。ソシャゲのRPGもお話としては小説といえるのかもしれないのだが、かっちりした本を腰を据えて読む時間がないのは自分としてもなんとかしなければ)

戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)
p262

[戦闘員]どうしの距離が増大すると、攻撃性の増大が可能になる。
ベン・シャリット「抗争と戦闘の心理学」


p267
 第一次世界大戦中には、敵味方がたがいによく知り合うようになったために、なんども非公式な停戦状態が発生した。一九一四年のクリスマス、イギリスとドイツの兵士は多くの防衛区域で平和的に会い、プレゼントを交換し、写真を撮りあい、サッカーの試合さえしている。(著者注:Gレコでもトワサンガと地球人がガレキ処理で協力したことが有る)
 エリッヒ・フロムは言う。「信頼できる客観的な証拠から判断すれば、破壊的攻撃は、少なくともかなりのていど、一時的あるいは慢性的な心理的離脱に関連して起きると考えられる」。先にあげた状況は心理的距離の崩壊を意味しているが、この心理的距離こそが、相手に対する共感を消し、この<心理的離脱>を実現する上で決定的な要因なのである。ここでもやはり、この現象が起きるには複数のメカニズムが関わっている。


・文化的距離――人種的・民族的な違いなど。犠牲者の人間性を否定するのに有効。
・倫理的距離――ここで問題になるのは、みずからの倫理的優越と復讐/制裁の正当性を固く信じるという、多くの内戦に見られる心理である。
・社会的距離――社会的に階層化された環境において、特定の階級を人間以下と見なす慣習の生涯に渡る影響。(著者注:クンタラ?)
機械的距離(機械の介在)――手の汚れない<テレビゲーム>殺人の非現実感のこと。テレビ画面、熱線映像装置、暗視装置などの機械的な干渉物が介在することによって、犠牲者が人間だということを忘れることができる。


p281
 ナポレオン時代以前の戦闘では、ほとんど例外なく、槍またはマスケットの先を見つめる農奴は、そこに自分とそっくりの哀れな農奴の姿を見たものだった。その鏡像のような敵を殺す気になれなかったとしても無理はない。そういうわけだから、古代史における接近戦の殺人の圧倒的多数は、戦闘員の大多数を構成する農奴や小作農が行ったのではなかった。戦場で真の殺人者だったのは、精鋭集団、すなわち高貴の人々だったのだ。それが可能だったのは、なんといってもやはり社会的距離のおかげだった。

 あまりちくま学芸文庫のことばかり書くのもGレコのオタクとしては違うのだが。


 ようするに自分と似た人間を殺すのは自分を殺すような感覚がして気持ち悪いのである。僕が親が死んだあとに、精神科医に「自分が殺したと思わないように」と指導されていてもPTSDを発症しているのは親が(不愉快ながら)似ている(生活をともにしたことも有る)からである。ヴィーガンシー・シェパードが肉食を好まないのは動物(とくに知能の高いと言われる動物)が自分に似ていると思い、自分が死んだり食べられることを想像したくないからである。京都アニメーションの放火が非常に人々に影響したのは、京都アニメーションの作品に親しみ、同一化を感じていた自分の部分が消されたように感じたからだろう。
 結局、人は本質的に自分が死ぬのと、自分の死を連想させられるのが本能的に嫌なだけで、他人はそういう本能で稼働する意識を修飾するファクターにすぎないのかもしれない。


 そういう他人に共感する本能があると同時に、逆に自分と敵が違うと差別できる部分を見つけて増幅すれば、Twitterレベルでも日夜展開されるウヨクサヨク反日嫌韓ルワンダ虐殺なども簡単にできる。テレビの殺人事件や不祥事のエンターテイメント的な報道も、テレビの向こう側のものとして犠牲者への共感をごまかすことと、推理小説や警察みたいに犯人(あるいは敵対政党や他国)を糾弾する快感を増幅することで成り立ってるんだろうなあ。
 ライオンなどオスをリーダーとする哺乳類でも見られるが、離婚したあとの若い母親が新しい恋人によって自分の子供が虐待され殺されるのを黙認するような事件も、古いパートナーとの間の子どもへの共感、同質性が新しいパートナーへの同一化よりも優先されなくなるという本能があるんじゃないかなあ。
 まあ、本能的に切断処理をできないと捕食による生存という動物の本能的生活ができなくなるのでしかたないんですが。


 ガンダム世代への提言第1巻の東京大学大学院人文社会系研究科教授の加藤陽子氏との富野監督の対談 

富野 僕は、現代人が次の世代に向けて目指さなければいけない知のありようというのは、敵がいなくても真っ当さを開拓できる知だと思います。それがとてつもなく難しいことだとしても、敵を想定しない良き統治を目指そうよ。それこそがニュータイプだろうって思うんです。


加藤 非常に面白いです。この問題が一番悪い形で表現されたのが『エヴァンゲリオン』かもしれませんね。自分たちと敵がイコールだというところに行き、それが個人の愛に重なってしぼんでしまいましたから。(著者注 この対談はヱヴァンゲリヲン新劇場版の前)


富野 愛には裏腹な問題があって、愛を突き詰めていくと自己閉塞に陥ってしまうんですよ。我々は公共の場で生きているわけだから、自己閉塞に陥る愛ではなく、愛を拡散する、広げていく愛というものを意識しなければならないんでしょうね。
ガンダム世代への提言 富野由悠季対談集 全3冊セット

 話をGレコに戻すと、ベルリ・ゼナムくんは多くのモブの軍人(集団で罪悪感を希釈できる)とも違うし、天才で高貴なクリム・ニック大尉や、差別をなくしていくというクンタラの正義に燃えるマスク大尉とも違って、殺人を合理化できない。
 アイーダさんへの恋心で守るために戦おうか、というモチベーションがレイハントン家の皇子と皇女だと知らされると消えてしまう。それで、個人的な愛をゲットするとか出世するとかいう欲望が去勢状態になってしまう。んで、宇宙世紀の技術を守ろうとしてトリトン族のように滅んだレイハントン家の子孫として姉に指導者になってもらおうという義務感が発生して、ベルリの戦いは自己犠牲的になる。最強のG-セルフを動かせるのが自分と姉とラライヤだけというのも、自信になると同時に責任感になる。
 また、ベルリ・ゼナムくんは他人を差別するのが苦手というか、世界中にエネルギーを配給するスコード教の幹部のウィエルミット・ゼナム運行長官を養母として尊敬していて、地球の人全部に奉仕する仕事を目指していた。そして飛び級性として才能もあるだろうけど、学校の勉強も自主的に授業範囲を越えて勉強する努力もしていた。自分の出世のためではなく、公共の福祉のために努力できる少年だった。ベルリが自分で欲したのはアイーダへの愛が初めてだったのかもしれないのだが、それも去勢されてしまう。
 そして、ベルリは本当の親がトワサンガで滅ぼされたヘルメス財団のレイハントン家と知れば、地球にも、月にも、金星にも、帰属意識を持つことができなくなる。所属する集団のために戦うという風に戦いを合理化できず、責任や罪悪感を抱え込みながら戦うハメになる。
 ベルリくんはその優しさというか善性ゆえに、色んな場所や国に行ってもある程度は敵も含めて自分と同じ人間だと思ってしまい、同時に自分の所属もあいまいなまま個人として地獄な現実と直面してしまい、差別や切断処理をうまく行うことができず、メンタルをやられていく。
 ある意味、ベルリは公共に愛を広げていくためにパーフェクトパックG-セルフを駆って戦おうとしたとも思えるけど、殺すことは殺してしまっているので、かなりのストレスを抱えることになる。


 そういうのが、トミノアニメブロガーナイトというイベントで話した殺人考察の元になった発想のあらすじなのですが。

 僕の考えでは、ベルリと同等の知力と体力と技能を持つのがキア・ムベッキだったと思う。キアが年令を重ねて、宇宙世紀の技術を研究するラボの局長になったので、ベルリがレイハントン家で宇宙世紀の技術を発展させるような大人になった場合のシミュレーション、未来の可能性とも言えるのがキア・ムベッキだったのではないかと思う。
HG 1/144 ジャイオーン (Gのレコンギスタ)

 

  • 疲れた

 「自分と似ている人間を殺すのはつらい」という前提条件を話すだけで、徹夜してしまった。また、長文になったのでパソコンのメモリーが重くなった。
 そういうわけなので、キア・ムベッキが第20話でどのようにベルリに似ていたのかを見ていく、「キア・ムベッキの殺人考察」は次の記事にします。もちろん、AパートとBパートにも分ける。
 やはり、キア・ムベッキ隊長は富野監督が「作中で一番かっこいい男」と言うくらいなので重要なようで、ちょっと書きすぎてしまいました。少し寝たらいつものパターンで作中の経過に合わせて書いていきます。しかし、主人公のベルリと同格にキア・ムベッキの主観が描かれるのが第20話と第21話なので、ちょっと難しいなぁーって思ってしまう。

  • 目次

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 殺人考察は劇場版一般公開の11月29日までに終わらせたい。


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