玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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ガンダム Gのレコンギスタのベルリの殺人考察第1部第5話 それぞれの戦う理由

 分かりにくいと言われがちなGレコをベルリ・ゼナムの殺人や戦闘に対するリアクションを中心に考えていくこのコーナーですが。年内に全話を解説するつもりが週間ペースになってしまい、完全に無理!って言うかあと半年もかかるのかこれ?なんとか頑張りたい。
 執筆時間を短縮するためにGレコを再生しながら時間順に解説していきたい。皆さんもお手持ちの円盤やバンダイチャンネルガンダムチャンネルでGレコを見直していただきたい。
 今回はGのレコンギスタ第5話「敵はキャピタル・アーミィ」について書きます。
www.b-ch.com

  • 本放送の時の感想

nuryouguda.hatenablog.com
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  • 前回の殺人考察

nuryouguda.hatenablog.com

  • マスク登場!




 冒頭、ウィルミット・ゼナム長官の憂いの直後、喜び組が「世界を守れ!キャピタル・アーミィ!ニューマシンで守れ!エルフ~・ブルック!」と踊る。



 マニィはマスクを見てもルインに気づかない!という笑いどころでもあるが、ここで喜び組みたいな高校生チアリーディング部が出るというのも本質的だ。


 このブログではGのレコンギスタの演出や細かい動きを解説しながら、私自身の思っている時事や人間の生態についての意見も書いている。
nuryouguda.hatenablog.com
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 このように、ヒトは女に褒められたい、人に認められたい、神や社会や世間や世界といった大きなものに関与することで寂しさを紛らわせたいという本能を持つ、とか富野監督の意見ではない私の意見もGレコの威を借りて書いているわけだが。
 

 人ひとりには洞察力がなくても、総体として堆積し凝縮された意思は、民意といわれるものになって、ときに時流に敏感かつ狡猾に発現する。
 まして、自分たちの総意を代弁してくれる一人の英雄が現れれば容易に荷担する。そして事態の進展がまずければ総意を代弁してくれた英雄を生贄にしてすますこともできるから、民意は意思の代弁者を容易に祭り上げるのである。
 その英雄が民意の代弁者として立ってくれればそれでよく、次の新たな征服者があらわれれば、その英雄をスケープゴートとして差し出すことによって。民意自身は免罪符を手に入れて、新たな征服者に唯々諾々と屈服してみせるのだ。
 そうすれば決定的な根絶やしにあうことはなく、次の機会を狙うことができる。
 これが一般大衆といわれる集団の意思のありようなのだ。けっして自らが頭領にも大将にも統治者になることもない。
 これが大衆の総意がもつ狡猾さである。
 だから、突出しない大衆を指弾することはできないし、また向上心をもてと命令することもできないのは、大衆はたえず頭を下げ続けているからだ。
 しかし、人の上に立つことが成功の証であり、立身出世の印であることを疑わない者はスケープゴートの役割がくるまで一時の自己満足に浸る。
 生来、人の上に立つように運命づけられている人びとは永遠に安楽というもののないことを承知しつつ、その地位に立ってみせる。
 隠れていれば狙撃されない。
 人の上に立とうとしない大衆は狡猾である。が、それは生きてゆくうえで必要な皮膚感からきている知恵であるので、何人も指弾しえないのだ。
 そして、突出した人びともまた、いつか大衆という隠れ蓑のなかに安息の場所をもとめようとするから。その存在をゆるすのである。つまりいつか有効な存在になるのだから、根絶やしになどできないのである。
リーンの翼 2

 という、リーンの翼の小説版の地の文にあるのが富野由悠季の思想なのであるが。
 では、モブでいれば狡猾な大衆として生きていられるのに、なぜルインはマスクになったのだろうか?
 それは、民衆の中でもルイン・リークンタラという被差別階級であり、選ばれた英雄にならなければ、いくらキャピタル・ガード養成学校の主席の成績になっても差別される進路しかないということに気づいてしまったからである。これは、前回のキャピタル・アーミィ記念式典で格好良く壇上に上がって戦意高揚の演説をぶつベッカー大尉を見てルインが感心したような顔をした事からもわかる。ガンダムのスピンオフアニメである鉄血のオルフェンズでも貧乏な底辺の若者が生きるには戦うしかない、という展開がある。Gレコにおいては「進学校の首席であっても、家柄が良くないと就職しても差別されるので、戦士になって社会に自分を認めさせないといけない」という話なので、差別が単なる貧乏や能力のレベルではなく人間社会において複雑に陰湿だ、という話。

 私は輪るピングドラムという「選ばれないということは死ぬこと」「きっと何物にもなれない」とか言うアニメが好きなのだが。


 ピンドラでは「愛すること」が最終的な救いとして描かれたわけだが。つまり、選ぶことが愛することで、ヒトは誰かに特別扱いされたいという欲求の話だ。
 それで、ここで面白いのは、富野由悠季監督はその孫弟子くらいに当たる幾原邦彦監督(セーラームーンRとかも作った人)の輪るピングドラムを見ているのかは不明だが。ピングドラムに対してGレコを見た場合、ルイン・リーは恋人のマニィ・アンバサダから見て「何者かである愛する恋人のルイン」だったのに、ルインは同じクンタラである(可能性が高い)マニィに愛されるだけでは満足できないで、マスクになった。その結果、マニィからルインは見ることができない「マスク」として、輪るピングドラムでの透明な存在の「記号」「ピクトグラム」になってしまった、ということ。
 輪るピングドラムは社会的なテロ事件を描いたものの、最終的には「家族の愛」に回帰したわけだが、ルインは家族になりそうな恋人の愛を最初から持っていながら、「やはり俺は社会に認められたい」と恋人をいったん捨ててしまうわけです。(まあ、最終回では結局、恋人の元に帰るわけだが)
『輪るピングドラム』公式完全ガイドブック 生存戦略のすべて (一般書籍)



 じゃあ、そのルインが承認してもらいたがっている社会は何なんだ?ということも考える。
 その社会はMSの出陣式において美少女高校生チアリーディング部が、おそらくスクールアイドルみたいな存在のチアガールたちが戦士を鼓舞して笑顔にするために「世界を守れ!」って言う。
 富野由悠季も同じサンライズのアイドルアニメに言及することがあるが、富野はそこから一歩進んで「人を笑顔にするために頑張る女子供のアイドルを社会が利用したらどうなるのか」ということを5話冒頭の「敵メカ出陣式」という、ライディーンの妖魔帝国とか、マジンガーあしゅら男爵プリキュアや戦隊の敵のAパートのミーティングみたいな段取りの出陣式で、アイドルはどういうものかということについて描く。
 富野由悠季F91の頃から、V、ブレンパワード、∀、キングゲイナーと「組織に利用されるアイドル的存在」を描いてきたわけだが。
 Gレコのラブライブ!のスクールアイドルのようなチアガール部が男社会の軍隊の士気高揚のために利用されるのは、富野由悠季がGレコで描きたいと言った全体主義的な物なのだろう。
 喜び組ヒトラーユーゲントの美女たちが現実の地球にもいる。ラブライバーネトウヨを兼任していることも多い。
 アニメにおいて、全体主義を賞賛する美少女というのは「権力者を盲信する狂信者」という風に描かれることが多い。現実の地球のポリコレにおいても、「ナチスは狂人の集まりである」と侮蔑的に描かなくては戦後の「民意」の社会から虐げられるという現象がある。

 しかし、Gレコの恐ろしい所はそのような翼賛美少女を単なる狂人として描かず、「主人公たちの同級生で特に異常者ではない、普通の感覚の高校生」「敵でも味方でもないしどちらにもなり得る存在」「むしろ女装男子や黒人も取り入れた、リベラルな思想の集団」として描いたところ。
 つまり、ナチス軍国主義を排除したはずのリベラルな思想の戦後の「普通の人の社会」にも、「アイドルを戦意高揚に利用したい組織」とか「女に褒められたいという動機で無茶をするヒト」という根本的な本能はあるのだ、ということを指摘するのがGレコなのだ。
 美少女や美少年を侍らせる全体主義というとハーレムを持つ独裁者のようなものを連想しがちだが、Gレコにはギレン・ザビのような分かりやすい独裁者は(その家系であると言われるベルリ・ゼナムを除いて)出てこない。(ラ・グーは総裁であって総帥ではない)

平家物語』には、平安時代末期に平清盛が実権を握った際、「禿、禿童」(かぶろ、かむろ)と呼ばれた多数の禿の頭髪の童子(及び童形の者)を平安京内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報などを集めて密告させた、とある。
平家物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 むしろ美少女、美少年による組織維持はナチスヒットラーユーゲントがなくとも、わが国でも千年前の禿童など、歴史的に珍しいものではない。
 富野由悠季が傾倒しているハンナ・アーレント全体主義を描いた思想の「悪の凡庸さ」とは、ナチスは人類にとって異常なものではなく、ヒトの普通の本能的な思考そのものが全体主義的な組織に親和的だ、というものだ。
アドルフに告ぐ 1



 で、ここでGレコのスクールアイドル達の社会的なポジションを見てみるのも面白い。
 彼女、彼らは戦士たちを応援して褒める役割を担っている。しかし、ルインがマスクということも知らされていないし、特に戦争の意味とか作戦を理解している風でもない。
 つまり、ヒトは女に褒められたいし、女子供に応援されると気持ちよくなるので、組織はそれを利用するのだが、そういうヒトを笑顔にするアイドルとかキャバ嬢みたいな女子供は仕事の功績を理解して認めて承認するのではない。ヒトは理解されるよりもとにかく無条件で褒められたいという本能を持つ。

  • 狩猟時代から変わらない男のプライド


「男には男のプライドがある」

こんな言葉をあなたもどこかで耳にしたことがあるかもしれません。しかし『男のプライド』とは何なのでしょうか?

簡単にまとめるとこんな具合です。

自分という男は仕事ができるカッコイイ男だ
自分という男は女を幸せにしてやれるカッコイイ男だ
自分という男は人から敬われるイイ男だ
自分という男はとにかくカッコイイ
自分という男は色々凄い

女性(という弱い生き物)には見下されたくない、敬われたい!」と考える男性が多いのも、こうした気持ちがあるからこそ。


女性は『波風立たせず平和に周りの人と共存すること』を重視する傾向があるのに対して、男性は女性と比べると『勝つこと』を重視する傾向があります。

なぜかというと、女性は『強い男』に惹かれる傾向があるからです。

現代で言えばそれは例えば、仕事で地位や権力を得ること。社会的に『強い男』であることは、女性の関心を引くためにも重要なことなのです。つまり男性にとっては『仕事での成功』は『仕事以外のあらゆるものでの成功』と密接に関係しているということ。

だからこそ、男性は『強い男であること』にこだわります。そして女性や周りの人からそのことを認められたい、と強く思っているのです。


男性に限らず人は誰しも心の中に『認められたい』という欲求を抱えているといわれています。(『承認欲求』と言います)

『相手を褒める』という行為は他人のそれを解消する一つの手段。

凄いね
頑張ったんだね
素敵だね

そんな言葉で肯定されると、確かに自分が認められたように感じて嬉しいですよね。


男性は女性から「強い男だと思われたい」と思っていること。だからこそ、女性から子供扱いをされたり上から目線でものを言われることを嫌がる男性はとても多いです。

男性を褒めるときには先に紹介したような言葉で『下から褒めること』を心がけてください。
risounokareshi.com

 という、女性向け恋愛講座がある。
 このように、Gレコのチアリーダーがあるように、男はキャバクラ嬢や女性声優や、自分の妻や女子供など目下の者に理屈抜きでちやほやされたいという欲求がある。で、どうもそれは生殖欲求でもあるのだが、「子供の頃に母親に褒められた快感が忘れられない」という快楽体験との混同もあるだろう。


 私もラブライブ!スクールアイドルフェスティバルの運営会社のKLabで過労死寸前になって退職して社会的に詰んで母親が自殺して何もかもやる気を失ったので、THE IDOLM@STERシンデレラガールズ櫻井桃華ちゃまの子宮に還りたいというバブみを発症したのだが。なので、バブみとか感じられる授乳動画や耳かき音声作品とかを見聞きして現実にバイバイして赤ちゃんに戻っているのだが。


 つまり何が言いたいのかというとママみについて本気出して考えてみた。そして、人類は石器時代が数百万年、農業や文明ができてから1万年くらい。なので、人間は石器時代の本能のままの肉体と本能を持っているし、電気や物理学や遺伝子学を知ってからまだ200年程度しか経っていない。文明的な人類という方が人類史において異常なのだよ!なので、人類の本能で考えたところ、ママの適齢期は12歳です。櫻井桃華ちゃまに母性を感じる私は間違ってはいない!ママーーーーッ!
 石器時代の人類の平均寿命は25歳。そして人類はポリコレが何と言おうが初潮の年齢から妊娠とセックスができるし、ロリコンは異常なんかじゃない!むしろ若い雌はテロメアが長いからママとして妊娠するのに最適!最近の先進国のメスどもは晩婚化しすぎだろ。
 そういうわけで、ヒトはサルの一種なのでニホンザルのようにベイビーの時にママにしがみつけるかどうか、ママのおっぱいにありつけるかどうか、ママの愛情をゲットできるかどうかが死活問題の本能として全員にプリインストールされています。国籍や貧富の差や教育レベルや体質の違いがあっても、哺乳類ということは共通しているので、たいていのヒトは「ママに愛されたい」という本能があります。それがない赤ちゃんは虐待されて死んでしまい遺伝子が残らないので、そんなやつのことは考えなくていい。
 そして、ママの適齢期は石器時代の100万年の伝統から考えると12歳です。最近のヒトは晩婚化しすぎているしポリコレもロリコンはダメ!とか「子どもは判断力がないからセックスしちゃダメ!」とか言うけど、(まあ僕もめんどくさいし科学の力のオナホールの方が生ものよりも気持ちいいからいいんだけど)、ヒトの本能としては「赤ちゃんの時に見るママは12歳」という歴史の方が長い。皆さん、母親と言えば物心ついたときの10歳くらいの時の母親を見ると大体30代から40代だと思うかもしれないけど、妊娠できる年齢もママになれる年齢も赤ちゃんを産む年齢も12歳なので赤ちゃん目線で考えると、ママは小学6年生です。
THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS STARLIGHT MASTER 03 ハイファイ☆デイズ

 つーか、12歳の女と25歳の女、どっちも岩波文庫を読んでいないのなら大して判断力に差はないし、判断力の有無でセックスが強姦になるとかならねーとか言う現代の法学の意見に僕は賛同しない。まあ、12歳も25歳もどっちも基本的に人間とかかわりを持つよりはオナホールの方が気持ちいいし衛生的だし手ごろだし脳内妹の方が僕のことを深く理解して愛してくれるし、戸籍上の母親は自殺したので地球人のメスに対する性欲はないのだが。(フォトショップ万歳だ)僕も足ピン床オナ射精障害なので完全に子孫を残す可能性が亡くなりました。どうもありがとうございます。


 いや、ロリコンの話じゃなくてだね。何が言いたいのかというと、ヒトはママに褒められたい、そして愛されて安心したい、という赤ちゃんの生存戦略の本能をプリインストールされている生き物なので、10代前半の少女=ベイビーの時に産んでくれるママの笑顔に快感を覚えるし、成長してからも親に愛された記憶が快感として残っている。なので、10代の女子の笑い声や褒めてくれる声には男女問わず快感が生じるわけです。これがアイドルブームの本質です。
 石器時代とかバブみとかちょっと変態っぽいことを言ったけど、何が言いたいのかというと「若い雌に褒められると生理的に嬉しい」というだけです。それがGレコのチアガールです。アイドルアニメばっかり作っている河森正治監督は「アイドルの愛は生体フォールド波だ!」とか小難しいことを言っているけど、結局はママに愛されたいって言う赤ん坊に過ぎないんだよ!あばばあばば踊る赤ちゃん人間。オギャーッ!
 そして、ママがベイビーを褒めてくれたり愛してくれる時、ベイビーの行いが正しいとか優れているかとかではない。生きてるだけで褒めてくれるママがヒトが初めて抱くママの印象です。(ただし、文明社会や、より強い雄の遺伝子を残したい本能から、ママはだんだん成績の悪いキッズには冷淡になりますし、間引きもしますし、新しい雄を見つけるとライオンでも子供を殺します)

 話をGレコに戻すと、とりあえずGレコのチアガールとか喜び組とかヒトラーユーゲントみたいに「事情を知らなくても褒めてくれる馬鹿な若い女メスガキの歓声」に後押しされて応援されるのは、別に全体主義的な組織がナチスみたいな特別な異常者というわけではなく、むしろ女の子に褒められたいって言う気持ちは誰にでもある当たり前の感情じゃん。
 テレビの音楽番組やバラエティ番組でも、客席に座った個性の薄い観客役の女、あるいは顔も見えない女の録音笑いで「このテレビ番組で行われていることは評価されている」という錯覚演出が多用される。女の歓声にはそういう作用があるんだな。トランプを支持する後ろに並んだ女どもが政治をすべて理解しているわけではないと思うんだが、理屈っぽいババアのヒラリーよりも、若いメスに支持されているポピュリズムでトランプは大統領になった。世界一の超大国の選挙ですら石器時代の本能と大差ないのだ。ヒトの知性に絶望するね。まあ、僕は長くてもあと20年くらいで死ぬからその間にせいぜいアニメを見るだけだし子供も作らないし、人類が滅ぼうが知ったことではないのだが。



 が!
 しかし、ルイン・リー君ことマスク大尉がなぜこの物語のキーマンになり得るのかというと、まさに「若い女に褒められるだけ」で満足せず、より大きな「社会的承認のプライドとサクセス」を掴もうと精神を強化して、一般的なヒトの本能的な満足よりも過剰な英雄的行動に出ようとしたからなのだ!


 富野監督は最初の機動戦士ガンダム劇場版の頃から、「強い男と称えられたい!」っていう歌を作ったりするくらい褒められたい欲望をガンダムに盛り込んできた。富野監督はメンズのそういう承認欲求を作品にすることが多かった。彼自身もそういう欲求があるのかもしれない。


 クンパ・ルシータ大佐は自分でベルリを海賊部隊に行くように仕向けたのに、この言いぐさ。クンパ大佐が3話でG-セルフにベルリを乗せて発進させるようにした意図は不明瞭だったが、どうやらベルリというキャピタルタワー運行長官の息子でキャピタルガード養成学校の生徒が拉致されたので奪還する、という人道上正当に見える「言い訳」を作ってキャピタル・アーミィ軍事行動の正当化を図るためにベルリをあえて海賊に送った、という二手三手先を読んだ行動のようだ。クンパ大佐は戦争を起こして人類を鍛えたいという思想の持ち主なので、ベルリのことをこのように利用したようだ。現代の日本でも北朝鮮拉致問題北方領土の墓参りなどの「個人的な感情的には正当に見えること」が政治のカードに利用されてることがある。


 しかし、その拉致された本人であるベルリは





 自分が拉致されたことでキャピタル・アーミィが軍事行動の方便を得たとは思ってもおらず、逆に戦士として海賊部隊の勧誘を受ける。
 アメリア大統領の息子のクリム・ニックに至っては海賊部隊という体裁を隠さず、「アメリア軍に入隊しないか?」と言っている。
 拉致被害者の家族のいるキャピタルテリトリィはそれを理由にして軍事行動をするし、拉致被害者本人は拉致された先で軍事行動に利用されるという。どっちにしても人は戦争したがる、というGレコの世界観。

 メガファウナが囮になって宇宙艦隊キャピタル・タワーを占拠する作戦が1クール目の要の作戦、ファーストガンダムにおけるオデッサ作戦のようなものだが。それは死んだカーヒル大尉の立案したものだ。死んだ人の作った作戦を遂行することで弔いになる、ということで暴走することは後半ではジット団が行うのだが。



 死んだカーヒルにこだわってその意志を本人が死んでいる所で代行しようとして組織が戦争に向かっていく。そして彼を殺した主人公のベルリも、カーヒルへの負債を返済しようとして戦争に向かう。死んだ人間に引きずられて新たな殺人に向かう。





 ベルリは殺したカーヒルに対して詫びるためにメガファウナを守る、と言っているが、それが新たな殺人行為につながるという戦争のシステムをまだわかっていないのではないか?坊やなんだな…。

  • ベルリとノレド

 ベルリはパイロットスーツを着てしまい、それにノレドは健気にもお守りのようなウサギのパッチワークをつけてやったのだが。ベルリは戦う気持ちになっていて、ノレドの船を降りようという意見に耳を貸さない。



 ベルリはノレドがいないところで船を守るという約束をアイーダさん相手に勝手にしてしまったのだが、それをノレドに押し付けようとする。なかなか主人公としてはゲスい。
 しかし、ノレドもベルリのそういう所は見抜いている。

 ベルリがアイーダに惚れてはしゃいで戦争したがっているって言う。ベルリはノレドに二人の名前を付けたペットロボット、ハロビーのノベルを贈られるくらい惚れられているのに、ノレドを異性として見てあげていない。なんなんだろう、この距離感。
 おそらく真田丸の信繁のきりに対するような「仲が良すぎて異性として見れない」という幼馴染感覚なのだろうが。



 ノレドに「あの女に惚れっぱなしなんだ」という当てこすりを言われたのに、逆にベルリは「ラライヤはパイロットスーツを見慣れている」という、どうでもいい話題を言って話を逸らそうとする。すごいな。ガンダムの主人公のヒーローが寿美菜子声の自分に好意を向けている美少女に対して「他の女に惚れているというのを指摘されて、他の女の子の話題に逸らす」っていうクズみたいな言動をするのがヤバい。
 ノレドはおそらくこの物語が終わった後に歴史学者になるらしく、ベルリとは別の道を歩んで、このGレコの物語は彼女の青春の一ページになるらしいのだが。普通のアニメでは大体高校生の男女の恋愛沙汰が重視されることが多い。しかし、ベルリとノレドのこの微妙な関係は恋愛ではない。ノレドはベルリに恋をしているが、ベルリはそれを拒絶するでも受け入れるでもなく、アイーダを追いかけてしまっている。
 真田丸の信繁ときりは、お互いに40代50代になるまでの半生を描く大河ドラマなので、Gレコの16歳の時の数か月を切り取っただけのものよりも長い時間の関係性を描けているわけで。ここは富野監督が三谷幸喜さんに嫉妬を覚えるところだろうなあ。アニメキャラクターに年を取らせるということをZと逆シャアで発明した富野監督としてはより一層、真田丸の劇の組み方はうらやましいだろう。なんだかんだ言って主人公が数十年単位で年を取るガンダムってZと逆シャアと、クロスボーン・ガンダムシリーズと、AGEと機動戦士ガンダム クライマックスU.C. 紡がれし血統と新機動戦記ガンダムW フローズン・ティアドロップくらいだからなあ…。Gレコに続編があればいいんだけど…。

 で、ベルリ・ゼナムは自分に好意を向けるノレド・ナグに対して「ラライヤの話題に逸らす」っていうことをして、あしらって更衣室からモビルスーツデッキに出たのだが、そこでアイーダ・スルガンと出くわす。




 ここの見つめ合う、というかアイーダに見下されるベルリの作画が異様に手が込んでいるのだが、セリフもない5秒くらいのシーンなので流し見していたら見逃しがちなのだが。
 ベルリはノレドに対しては気安く話しながら、話を逸らしたり目を合わさずに着替えながらしゃべったりしたのに、アイーダに対しては見られると視線を逸らせずに黙るしかない、というこの16歳の男子らしい女性に対する距離感の演出が渋い。しみじみ・・・。

  • ベルリとハッパ

 普通の学生だったベルリが戦争に動員されて行くGレコだが、出撃に当たっての技術者のハッパ中尉との会話が面白い。
 なぜ戦うのか、どうしたらいいのか、ではなく、「見て分かるメカニックの話」しかしていないのが男同士の会話という感じだ。





 機械をチェックして動かす段取りをほぼオートマチックに近い感じで、戦闘の是非を問わずにただただ技術者っぽく言い合っている流れで、ベルリは戦場に行くことになる。
 ハッパは極悪人というわけではないが、善人でもないので、ベルリ少年が戦場に出ることの倫理的な問題がどうこうよりも、メカをスムーズに動かすことの方に注意が行っている。これはこれで人間のありように対して批評的な作劇だが、こういうオタク技術者も社会には居るんだよねえ…。




 空戦についての感想は、本放送の時に述べた。
nuryouguda.hatenablog.com
 なので、ベルリがいかにして殺人や戦争にコミットして行ったのかということに注目している本稿ではカットシーは扱わない。
 しかし、やはりこの殺人考察シリーズで述べたように、「世界は四角くないんだから!」と曲線で動く海賊に対して、四角四面な価値観で直線のキャピタル・タワーを信奉するスコード教キャピタル・アーミィの戦法は「直線的な陣形で、相手の攻撃を面で受けてから攻撃する」という戦法が3話や4話のデレンセンの動きとも一貫している。ということは述べたい。
 相手に撃たせてから反撃する、というのが防衛組織としてのキャピタル・ガードから発展したキャピタル・アーミィの戦い方なのだが、それが6話で悲劇になることが戦法として丁寧に伏線が張られている。そして、世界が四角い、直線的だと認識しているキャピタルの思想と、そうではなく曲線的な弾道だというアメリアの海賊の思想が戦法レベルで表れて対立しているというのがまた、考え深い。1話のアイーダの「世界は四角くないんだから!」というセリフはファーストのシャアの1話の「若さゆえの過ち」レベルのよく分からない台詞なのだが、それゆえに作品全体の空気感を象徴している富野監督らしいセリフのチョイスだ。

  • クリムとマスクと映像の原則

 富野監督の映像の原則では「画面の右上が最強」なので、右上のポジション争いが戦闘なのだが。それについても本放送の時に述べたので今回は割愛する。








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映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

  • コア・ファイター出撃

 本放送の時の感想でも述べたが、いろんな人がベルリをG-セルフにドッキングさせようとする。逃げ出したがっていたノレドでさえもだ。





 ロボットアニメとして見れば応援してくれているようにも見えるが、学生のベルリを戦争に動員する行動だ。



 根っからの戦士、殺人者ではないベルリはそんな中でもコア・ファイターのレスキュー用の水の球でマスクを殺さないように戦おうとしたのだが…。やはりコア・ファイターは弱いのでガンダムと合体しようとするのだが、それはなかなか難しい。


 次回予告にも使われる勇ましい音楽が流れている中、ベルリはコア・ファイターをG-セルフに向けるがうまくいかず、音楽は止まってしまう。


 ここで威風堂々とした音楽に乗ってベルリが合体に成功したら、気持ちがいい英雄的な動画になるはずだったのだが、そうはならない。無音でオートマチック誘導に従って「合体できてしまった」というのが富野らしいところ。

 合体できた後、格好良くガンダムが立ち上がって再び勇ましい音楽が鳴りだすが…。


 コックピットとコア・ファイターの間のすき間にハッパさんが挟まっている!というギャグのような死に繋がりかねない事故が起きて、ベルリのG-セルフとのドッキングは気持ちの良い成功体験にはさせてもらえない。
 姉に誘導してもらっての、コア・ファイターのドッキングはフロイト的にはセックスのメタファーなのだが、そこで挿入したらオッサンが挟まってるとか、射精としては気持ちよくない、というのが男性としての僕の意見だ。



 45秒間ならG-セルフは飛行できる!とハッパさんは言うし、実際にアニメとしてもそうなるのでリアルタイム動画として面白いのだが、コア・ファイターのフロントガラスを滑り落ちるハッパさんはいまいち格好悪いし、戦闘の勇ましさには欠ける。富野監督はGレコで全体主義を描こうとしたらしい。そして、全体主義ナチス大日本帝国は戦争の格好良さを宣伝した。それは現在のアメリカの兵士募集やISISも同じなのだが。Gレコはどうも「戦闘の勇ましさを強調しない」「気持ちよく戦争をさせてやらない」という演出意図があるようだ。反戦思想なのか?戦場に赴く際、誰もが「我こそは勇者」という自己陶酔に浸りたいものだが、そこにちょいちょい水を差して「戦争も所詮は人間の日常的な人生の延長だ」としてくるGレコ。だから戦争をシビア一辺倒に飾った勇ましい悲劇的なガンダムと違って、Gレコは売れなかったのだろうか?

 モンテーロとの対戦でも映像の原則での「右上のポジション争い」だったが。

 一撃離脱で45秒間の制限のあるG-セルフも一回だけ右上に立つことでエルフ・ブルックを撃退した。











 この跳躍で、一瞬だけ「右上」の最強のポジションからの斬り下しを敢行する。



 「守るだけでは勝てないから!」とベルリはキャピタル・ガードの志を自ら戦闘の高揚感で否定しつつ、自分はすごいガンダムの威力で勝ちながら、「キャピタル・アーミィがそんなもの使っちゃいけないんですよ!」と、超上から目線で叫ぶ。
 海賊軍に肩入れしたベルリは、自分が防衛を否定して勝っているのに、キャピタルには防衛権しか認めず、攻撃的なエルフ・ブルックを否定して撃退する。
 ここら辺の戦い方に対する態度は現実の自衛隊の在り方への批評性も含んでいるし、かなりアニメ作品としてはヤバい橋を渡っている表現だ。人は自分の戦いを「守るために正当なものだ」と言いながら「守るだけでは勝てないので攻撃する」「しかし、敵が攻撃するのは不正なことだ」と言いたがるのだ。これは自衛隊だけでなく、あらゆる戦争がそうだ。この戦争に対する見方がロボットアニメ作品という低俗な娯楽テレビ萬画でありながら、現実に対する批評性もあり、やはり富野はすごい。
 そして、人間関係としても「すごいロボットを与えられたベルリがいつも上から目線でマスク大尉の出世を邪魔する」のが5話の初戦闘から行われているので、そりゃあ終盤のマスク大尉はベルリに対しての憎悪が煮えたぎりまくるよなあ…。という作劇の骨子にもなっている。
HG 1/144 エルフ・ブルック(マスク専用機) (Gのレコンギスタ)

 真田丸真田幸村のように、誰だって「戦争で無駄な血が流れてほしくはない」と、同時に「戦うからには自分が勝ちたい」「守るだけでは勝てない」と思う。しかし、そういう風にベルリが「強い武器で戦うな!」と言いながら強い武器をふるうのは、マスクから見ると「お前は独裁者かよ!」という気持ちになる。そういうドラマなんだなあ…。真田丸大河ドラマの中ではヒットしているらしいので、それに似ているGレコもなんとか演出を工夫したら売れてほしいのだが…。それも富野ファンのひいき目だろうか…?



 まだ5話の序盤なのでG-セルフは一撃離脱で一振りしただけで「最強の右上」から墜ちてしまうのだが…。パーフェクトパックを得たらまさに悪魔になる。
HG 1/144 ガンダム G-セルフ (パーフェクトパック装備型) (ガンダムGのレコンギスタ)

  • 戦い終わって


 同級生のルイン・リーが扮するマスクを、それと知らずに撃退した後、ベルリが自然にエルフ・ブルックを「敵の新型」と言ってしまうのも批評的だ。





 こうやって、ベルリが褒められたり推薦されたりして戦争に向かってしまうのが次回のミステイクに繋がるのだが…。やはりこの作品は「人に褒められたい、認められたいと思って戦争を起こす」ということを描いている。

 ベルリを褒めたアイーダは苦痛を感じるのだが、戦士は、ヒトは女に褒められたいし、それは母の愛を欲しがる動物としての本能かもしれない。しかし、それはレイプのように女性を傷つけることでもあるのかもしれない。


 本稿では殺人考察としてベルリを分析しているが、ベルリが英雄的に殺人をして気持ちよくなりたい!というオスの本能に水を差し、殺人をして身を立てようとする男の裏で苦しむメスを描く、という非常に人間、ホモ・サピエンスの本能や歴史に対する批評を感じる。Gレコはやはりすごい作品だ。人間そのものを対象として描いている。哲学を感じる。

  • ベルリとノレドの距離




 近い。
 アイーダとの距離感の描写を踏まえると、ベルリは性的に不感症ではない。しかし、ノレドを異性として意識している距離感ではない。海賊船の中で隠れながら密談しているということはあるにしろ、肩を寄せ合っている。ベルリにとってはノレドは異性というより身内なのだろう。ここら辺も真田丸の信繁ときりの関係に近い。
 というか、富野喜幸にとってはこういう異性間のバディ感覚は、むしろ無敵鋼人ダイターン3破嵐万丈とレイカ、ビューティの助手の美女との、ジェームス・ボンドの007の引用からきている気がする。
 万丈もコロスやドン・ザウサーの間で、いろいろと家族関係をこじらせた人物なのだが、女性とは付かず離れずのバディを組む。ベルリも姉に惚れるというややこしさを抱えているので、バディを組むノレドを女性扱いする余裕はないのかもしれない。まあ、それも彼の16歳らしさなのだが。
 キングゲイナーのオフ会デートの話で、富野監督の10代の恋愛とアラサーの恋愛の感覚は描かれているので、それは見てほしい。

  • 次回予告





 私はキャピタルの戦い方を「直線と面の組み合わせ」と分析しているが。「上から下から襲ってくる」という表現はまさに「面の挟み撃ち」という感じだ。
 そして、この左上から突撃するG-セルフは6話では欠番になったカットだが、映像の原則から見ると非常に暴力的だ。
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 第6話はこの殺人考察ブログにとっても非常に心苦しい所だが、なんとか頑張りたい。私も鬱病が悪化して、冬は寝込みがちだが、ブログを書かないと僕はただの糞の詰まった肉袋なので、人間として自分が生きる価値があると自分に言い聞かせるためにブログを書こうと思います。


 新渡戸稲造の「武士道」の日本語訳を最近読んでいるのだが、「仁とは王者の徳」らしい。僕もこのブログという狭い領地では王だ。そして、富野作品という芸術、Gレコは分かりにくいという民に対しては、こうやって解説して教えてやろうという王者の仁を与えようと思う。
 しかし、それは私一人の傲慢ではなく、私が30回Gレコを見て分かったことを、私のブログを読んだ人がGレコを10回見るだけで感じるようになってくれたら多くの人が通常の3倍で富野アニメを感じることができて、人類全体が効率的になると思う。そういう風に愚民たちに叡智を授けるという王者の使命として、私はアニメキャプチャブログを書く!
 まとめブログのようなただ画像を羅列すりゃあいいってもんじゃないんだよ!画像キャプチャはこう使う!


 ただ、素晴らしいアニメの見方の資料を作ってネットで公開して人に教えて人類をアップデートしたいという気持ちと同時に、裏からネトウヨネオリベや在日を煽って互いに殺し合わせて効率的に人口を減らしたい、というベルク・カッツェやジャミトフ・ハイマンやクンパ大佐みたいな考えもあるんだよなあ。
 なので、僕の文章は気を付けて読んでください。

  • 次回の殺人考察

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  • Gレコ感想目次

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 先日、この欲しいものリストからヒッチコックの映画論の4000円もする本を送ってくださったnmrさん、ありがとうございました。
定本 映画術 ヒッチコック・トリュフォー

 文庫サイズだと思っていたら結構でかいハードカバーでビックリしました。映画に対する見識を深めて、いいブログを書けるように頑張りたいです。
 オナホールやお酒も欲しいです!
 富野監督を見習ってブログを書きつつ、もらった本を読書する時間も確保したいけど、若者らしくアイマスのソシャゲーもしたいんだよなあ…。
 マシンパワーとしてはパソコンとタブレットスマホを使ったらソシャゲを5本同時にプレイしながらアニメを見て読書をしながら執筆もできるんですが、実際にはグラブルFGOのバトルを同時にやるとめまいがする…。頭を良くしたい…。