通りすがりさん
「別にギャルゲーシステムは好きじゃないです。キャラを水増しして一人当たりの露出を少なくするより、絞って関係を深めに書いて欲しいと言う事ですね。」
あ、つまり、ギャルゲーの個々のシナリオのような、一つの話で完結するのは良いけれども、
それを全部いっしょくたにしてアニメの1本の話に無理やりぶち込んだような感じは不自然になるから嫌という事ですかね?
それは僕も分かります。
ですから、その不自然さをなくす手段として群像劇をとるか、1つのカップルに絞るかという事は方法論の問題でしょう。
監督の個性や好みや時間数の使い方や劇場かテレビ化のフォーマットやマーケティングの方法論で上手くいくほうを選択したらいいだけの話ですね。
リスリス 『幼馴染について面白い話があるので、横槍コメントします。
10年以上前に庵野が作った逆シャアの同人誌に庵野と幾原邦彦の対談がありまして、
その中で以下のような記述があります
『幾原 安彦さんと富野さんは、絶対に相容れないだろうと思う。
なんでかっていうと、安彦さんの作品っていうのは、必ずいわゆるマザコンの極致であったりするわけですよね。
例えば、『アリオン』にしてもそうだし『ヴィナス戦記』にしてもそうなんだけど、いつも主人公の傍らにいる幼なじみの女の子と最後に結ばれたりするでしょ?
アレってよく考えてみると、非常に気持ち悪い話ですよね。
だから、安彦さんにすると、なぜ『ガンダム』でフラウ・ボウとアムロが一緒にならないのかというのが、ものすごく気になってしょうがなかったんじゃないかという気がする。ところが、富野さんの考え方でいうと、そんなのは、幼なじみというのは基本的にいつか離れる物であって、適当にいいように利用して捨てていくのが男の道だろうなんて思っているんだけど、安彦さんにはどうしてもそれが理解できない。』
今ココで起こってるのがまさにこの富野と安彦の対立なんですよねw
通りすがりさんが安彦で、グダさんがやっぱり富野w。
あと、キャラの搾りについてですが、笠井監督は群像劇を得意とした演出家であるので、
感情移入で一部にスポットを当てる方式よりも、複数人の複数の相互関係を描く方が
合ってるのは間違いないでしょう。
各話絵コンテ・演出にはアイマスの長井監督・桜美かつしのコンビも来ますしね。』 (2007/10/08 22:47)
というわけで、カサイ監督が群像劇を得意として、その人にオファーがあったということなので、良いんじゃないですかね。と。
長井監督・桜美かつしのコンビがどういう作り方をするかはよく知らないですけど。
逆襲のシャア友の会は読みたいですけどなかなか手に入らないですねー。
確かに、ボクはマザコンが過ぎて逆に母なる物を嫌悪するような部分が在りますね。
転校続きで幼なじみという概念が理解できないところもあります。
安彦良和先生はオリジンでもシャアはマザコンという風に描いてますね。まあ、オリジンの中ではそれで理屈がとおってるし、シャアはアムロを守り立ててくれればそれでいいんですけど。面白いし。
でも、富野由悠季が書いた逆襲のシャアの小説版は2つのバージョンのどちらでも「ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれない女性だ!」とは言わないんですね。むしろ、アルテイシアのことを考えている。
富野喜幸はマザコンというよりは自己愛の人だと思います。だから、シャアがザビ家に復讐するのは自分の方がカッコいいと思ってるからじゃないかなーと。
アムロも偶然引っ越した関係で近くにいたフラウ・ボゥなんていう女はハヤトにくれてやればいいんですね。自分につりあう女をゲットするまでは朴念仁気取りなわけです。
富野作品において天下国家を論じるのが多いのは自分が天下国家レベルにカッコいいと思ってる人の話だからです。
で、富野が面白い所は、天下国家を論じる人を悪役にしておいて、ソレを主人公にぶっ潰させる事によって主人公のカッコよさを極限まで高めてカッコよくすることです。
ブレンパワード以降の作品において世界の命運よりも女性のところに安定するようになったのは家族の支えで鬱病を乗り越えたという実体験もあったのでしょうが、「すごくカッコいい俺はどんな女でも何人でもいつでも幸せにできるぜ」という風にシフトした気がします。
リーンの翼なんか、キスしてくるヒロインを素で引き離して戦ったあと、嫁にしますからね。
しかし、サコミズの方がキャラが強くなってるので、また富野は新しい次元に進むのかもしれません。
でも、僕が脳内妹と付き合ってるのは幼なじみ好きと同根かもしれませんが。やっぱり自己愛ですね。
しかし、それでも僕は心のどこかで脳内妹は成長したら僕を捨てて他の男のところになびく可能性があるとも思ってます。
むしろ、未来に捨てられる可能性があるのに、今は僕と愛し合えるというところに自由意志の価値を感じるんですね。