玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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たまゆら〜hitotose〜第4話から解く写真映像の原則

「潮待ち島に聞こえる音、なので」10/25(火) 25:45 〜 2011/11/1(火) 25:45
http://anime.biglobe.ne.jp/title/4383/
これを題材に映像の原則。
8月末に発売された富野由悠季監督の映像の原則改訂版ですが。これは、インターネットで、上手下手論の正しさ、レイアウトの意図などが議論の的になっておりますが。実は、レイアウト以外にも大事な原則があるという事は皆様、お気づきか?
それは、「いい絵は長く見せれる」「雑な絵は長く見ると苦痛」という事です。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

当たり前すぎるだろー。でも、絵コンテはレイアウトと同時に秒数指定も大事なんですぞー。(むしろそっちの方が設計図的に大事かも)
富野監督が端的に言う言葉では「止め絵は3秒ルール」という原則。まあ、これは原則なので、いい絵とか、密度の濃い絵とか、視線誘導で被写体を中心から外して視聴者に運動させるとか、そういう応用で長くも短くもなるんだけど。
つまりどういう事かというと「映像は言語」「言語は伝達」「伝達は一言では伝わらない」「だから積み重ねでカット割り」という事。


で、富野監督の下でZガンダムの演出をしたり、他のアニメを作ったりした名作家佐藤順一監督の「たまゆら」ですが、これがカット割りが良いんだ。
女子高校生の日常を描いたアニメなのですが、「この子たちは女子高生です」「主人公の家族は祖母、母、主人公、弟です。お父さんはなくなっています」とかの情報が積み重なるわけ。でも、そういう設定をハッキリと説明してもちっとも面白くないでしょう。それが、少しずつわかるように、彼女たちや彼女達の周りの人たちとの会話の中で分かってくるのね。
そして、それは「彼女達はこういう人です」っていう状況説明もあるし「彼女達はこういう風に思っています」っていう感情も同時に在る。
この、感情が大事。
この、「この子たちはどう思っているんだろう?」って言う興味の抱かせ方、「この子たちはこう思っています」っていう見せ方、が上手い!
今回の第4話は麻音(まおん)ちゃんという仲良しグループの女の子の家に遊びに行って、麻音ちゃんの将来の夢や彼女の家族について主人公の楓(ふう)が知る、って言うあらすじなんだけど。
まさに「この子は何を思っているんだろう?」って話なんだけど。
でも、女子高生の普通の日常なので、そんなに「ミステリー」とかSFみたいに謎解きとか事件がはっきりと起こるわけではない。


だけど、それが彼女達の見聞きする情景の積み重ねが終盤で一つに結びつくことで、「この子はこう思ってるのかな」というカタルシスに結びついて、「ああ、伝わった」と思うわけ。
いいね。
この、ちょうど終盤に「わかった」と思わせるために、ワンカットずつではあえて「わからせない」と同時に、積み重ねて行く段階で「ここまでは分からせる」っていう微調整が上手い。
それは、台詞でもあるし、同時に、ワンカットの表情であったり、動きであったりもする。
「ここは大事だよ」っていう所はいい絵を長く描いて見せたり、「ここは冗談を言っているよ」って言う所は、短いカットでディフォルメした絵をパッと見せたりしてる。この微調整が良いんだよなー。しみじみ。
きんぎょ注意報!の慢符もそうだよね。


昨日の輪るピングドラムの感想で引用したジャック・ラカンの言葉でも、やはり言葉は次のような物である。

どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、メビウスの輪のような立体的な論理として考えればそうでないことがわかる。
ゆえに人は、より的確な言葉を探したり、より多くの言葉を重ねていくことによって、少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘する。この誠実さは評価される。それでも、言語活動=現実となる瞬間はない。これが象徴界現実界が分かたれる一面である。
ジャック・ラカン - Wikipedia

アニメのワンカット、動画の一枚も映像という文章の中の言葉の一つである。であるから、ワンカットで全てが分かるというものではない。ゆえに、不完全なワンカットの積み重ねによる映像こそが映画の意味を伝える物となる。
富野監督は映像の原則で、この一点において動画の映像と、一枚でメッセージを伝える絵画芸術とは異なっていると説いた。


佐藤順一はそこら辺を良く分かっている。さすがだ。


大事な事を追記:
で、たまゆらは「写真」がテーマの作品なんだ。一枚の写真、思い出の写真から読み解けるメッセージをさがす物語でもある。そこら辺が、演出や、アニメーションという表現と、非言語的にリンクしていて面白いのである。


で、富野がともすれば自分の主張を「わからせよう」として短いカットでも情報を詰め込んだり、全体にたくさん主義主張を込める癖があるのに対し、佐藤順一は「このカットの時点ではここまで分かってもらえたらいいかなー」「まー、この作品に投入できるのはこれくらいの意味かなー」という「ざっくり感」がある。
「分かってもらえない事を受け入れてる」って感じが富野より、強い。
また、サトジュンは「分かってもらえないこと」を利用した「ミスリード」や観客操作も上手い。
そこら辺は、ファンタジックメルヘンで物語がテーマのプリンセスチュチュで見ることができる。

新世紀エヴァンゲリオンの各話演出でも、それはある。
たまゆらと同時オンエアのファイ・ブレインのパズル性も、佐藤順一のこういうテクニックが発揮されているだろう。


まあ、これはサトジュン特有のものではなくて、言葉を操ること全般に言えるんですけどね。(オチ)


記号論の話だけど、ブログや小説で文章を書いていても、「ここはかったるいなー」とか「ネタを入れてごまかすか」とか「急にまじめぶって速度を変えてみるか」とか、あるしね。サトジュンやイクニはそういうのを使ってるよね(蛇足)

たまゆら~hitotose~第1巻 [Blu-ray]

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